大鵬幸喜 (たいほう こうき) 第48代横綱(1940― )

 

明治11年(1878年)、

秋田佐竹藩お抱えの刀鍛冶だった納屋(なや)市松は、

新天地、北海道に夢を抱き、神恵内(かもえない)に入植した。

長男の辨治は山形生まれのユキを妻に迎え、銭湯を営む。

二人の娘キヨは、大正11年(1922年)、自立しようと樺太にわたった。

このへんの事情は不明であるが、経済的な事情があったかも知れない。

樺太にやってきたキヨは洋服店に住込みで働いたが、

その待遇はかなりひどいものであったらしい。

 

ある日、この店に背の高いロシア人がやってきた。

見事な日本語を話すこの大男とキヨは親しくなり、

やがてプロボーズされ、大正15年(1926年)に結婚する。

ロシア人の名は、ボリシコ・マリキャン。

1917年10月革命の後、ソビエト政権に反対し、国外に亡命した白系ロシア人である。

大金持ちであったが共産主義を嫌い、樺太にやったきていた。

結婚した時、キヨ25歳。ボリシコは42歳だった。

 

昭和15年(1940年)5月29日、

南樺太、静香(しくか)。

納屋キヨは男の子を授かった。

38歳の彼女にしてみると、これはまったく思いがけないことだった。

 

赤ん坊は標準を下回る大きさで、虚弱児といってよかった。

生後3日目あたりから、喘息のような咳をし、母乳もうまく飲めず、

吐き出してしまう。

これでは果たして大人にまで育つのであろうかと、不安になる子どもであった。

 

その年、11月10日、皇紀二千六百年の式典が盛大に行われていた。

「皇紀」とは、日本書紀に基づき、神武天皇即位の年を元年と定めた紀元のことである。

すなわち日本の紀元とされた。

日本が誕生して2600年の記念の年だった。

母親のキヨは、この紀元の音から、産まれた息子に「幸喜」と名付けた。

 

樺太から命からがら北海道に引き揚げた時、幸喜少年は5歳。

幼いころの記憶はほとんどない。

 

後に第48代横綱となった大鵬幸喜の生い立ちである。

 

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