蛭子 能収 (えびす・よしかず)昭和22年(1947年)10月21日〜 マンガ家。

長崎県長崎市出身。長崎市立商卒。

マンガ家になる前には、長崎市内で4年間、看板屋に勤めていた。

その後、上京。看板屋、ちり紙交換等の仕事をしながらマンガを描き続けた。

昭和48年(1973年)雑誌「ガロ」でプロデビュー。

その後も、会社勤務(リース会社)のかたわら描き続け、昭和54年にマンガ一本に専念する。

過激不条理大汗マンガ?でカルト的な人気を得る。

昭和61年に東京乾電池の公演に参加したことから、その後、異色テレビタレントとして出演するようになった。

 テレビ出演しているのを見ても、おわかりのように、無意味に笑うヒトである。

 とりあえず笑ってしまうとでもいった感じで、感情の発露はすべて笑いにしてしまうかのようにさえ見える。

 

母親の葬儀で、実に27年ぶりに実の兄と会った。

 普通の感覚では、それだと絶縁状態にあったと考えると思うが、

成長した動物が自然に親離れするような状態で、兄弟は離ればなれになった…。そんな感じだったのだという。

 ところで、葬式は蛭子氏には大変な場所なのである。

 これ以上ないと思われる厳粛な葬式で、なんと彼は必ず笑ってしまうのだ。

 さすがに実の母の葬儀であるから、笑ってはいけないと必死にこらえていたが、ふと兄のほうを見ると、

その背中が小刻みにふるえている。

 笑っていたのである。

 その後、どのようなことになったかは、恐ろしくて知りたくもない…。

 

 

 蛭子氏の笑いの感覚は凡人には理解できないものがある。

 いつも笑っている彼だが、虫歯になり、これはさすがに笑っておられず歯科医院に行った。

 ところが、歯医者が治療中に「おっとっと」と口にした。

 それがおかしいのだという。

 笑いが込み上げてきて、ついには笑いだし、それがとまらなくなった。

 歯医者は狼狽した。よほど痛みがひどく、つらいのだろうと勘違いしたのである。

 ………

 

 

 

 


 

 

1972年、カーリー・サイモンが作詞作曲して大ヒットした曲、

“Your're So Vain”をご存じだろうか。

あなたはうぬぼれ屋さん、うぬぼれの度が過ぎるというような意味だと思うが、

この曲は彼女がある男性のことをイメージしながら創ったのだというのがもっぱらの評判だった。

 

ウォーレン・ビーティー Warren Beatty 俳優 1937年3月30日〜

バージニア州リッチモンド出身

女優のシャーリー・マクレーンの実の弟であることは有名であるが、

それよりももっと有名なのが、おそらくハリウッドでこれほど女性にもてた俳優はない

とまでいわれているそのプレイボーイぶりである。 

 

彼とかかわりのあった女性がその気になれば、大統領にだってすぐになれるとはしばしば聞くジョークであるが、

あながちオーバーでもないようなのだ。

 彼の噂はそこかしこで耳目に入ってきたが、私にはどこがいいのかまったくわからない。

彼の一等有名な出演作はフェイ・ダナウェイと共演した「俺たちに明日はない」だと思われるが、

何度観ても、彼が他の男優よりきわだってハンサムというわけでもないように感じるのである。

 彼のもとには多くのプロデューサーから出演依頼が殺到した時期があり、

それらの作品はいずれも大ヒットとなっているが、なぜか彼はほとんどをそれを断っている。

 彼の判断では、とてもヒットするとは思えなかったらしいのだ。

彼が出演を断ったおかげで、ロバート・レッドフォードは出世したとも言える。

「スティング」「追憶」「華麗なるギャツビー」、これらの作品は、いずれもビーティーが出演を断ったためにレッドフォードに回されたのだ。

 ハリウッド一のプレイボーイにはもっとほかに大事なことがあったのかもしれない。

 

不思議なことに、別れてしまったあとに大騒ぎになったという話はほとんど聞かない。

彼と付き合おうという女性たちは、ひととき時間を共有するだけで、満足してしまったのだろうか。

 1937年生まれといえば、加山雄三と同じである。

 かつてのプレイボーイは今も“現役”なのだろうか。

 


 

 

 

 

大泉黒石 おおいずみ・こくせき ロシア文学者 作家 (1894―1957)

本名は清。長崎に出生

父親はロシア人であり、幼時はロシアやヨーロッパで生活している。

帰国し、第三高等学校、第一高等学校などで学んだ後、

「中央公論」に「俺の自叙伝」を連載。

祖母のもとでの生活、そして親戚をたらい廻しにされた厄介者時代。

父をたよったロシアでの生活、フランスでの生活。

文字通りの波瀾万丈の逸話が満載されたもので爆発的な人気を得た。

ゴーリキーの「どん底」の翻訳(1921)、「露西亜文学史」(1922)、「老子」(1923)などを発表、

さらに「黄(ウオン)夫人の手」(1924)、「黒石怪奇物語集」(1925)、「眼を捜して歩く男」(1928)等の怪奇小説、

さらには「人間開業」(1926)、「人間廃業」(1926)などのユーモア小説も書いた。

 

芸能界にでも入れば、もてはやされる傾向にあるが、

一般人としては、今も昔も“外人の顔”をしていることは、

精神にある種の影響を及ぼすことは免れないのかもしれない。

黒石はダダイストとして知られた辻潤との交流もあった。

 

辻潤 つじ・じゅん (1884―1944)評論家は、

上野女学校に勤務時代、教え子であった伊藤野枝(のえ)と恋愛問題で退職。

野枝が大杉栄のもとに走ってから放浪生活に入った。

世紀末文学及び思潮を翻訳発表。

しだいにニヒリズムの傾向を深め、さらにはダダイズムとアナキズムに接近…。

(まあ、ひらたくいえば、目茶苦茶になってしまったのである)

昭和7年(1932年)ころから精神に異常をきたし、入退院を繰り返した。

昭和19年アパートの一室で餓死しているのが発見された。

 

大泉黒石は、こういう人物との交流があった。

その思想に虚無的なものがあったとされるゆえんである。

彼の先祖をさかのぼれば、ロシア皇帝にまでさかのぼることができる。

そして黒石の息子は、ユーモラスな役柄で親しまれた俳優、

大泉晃(おおいずみ・あきら)氏。

つまり大泉晃はロシア皇帝の末裔ということになるわけである。

 


 

 

 

 

ジョン・レノン John Lennon(1940―80)

 

僕はエルヴィス・プレスリーになりたくないからビートルズをやめたんだ。

 

かつてプレスリーに憧れて、「プレスリーのようになりたい」とロックンローラーになったジョンは、晩年近くにはこういっていた。

 

スーパー・マネージャーとスーパー・アーティストがいて初めてスーパースターが生まれる。

マネージャーとアーティストは、まさに、“食うか食われるか”。

エルヴィスはやさしい奴だったから、マネージャーが生き残り、彼が死んだ。

僕らの場合、幸いなことに、ブライアン・エプスタインが死んでくれたから、今、生き残っていられるのさ。

 

ブライアン・エプスタインはリバプールの楽器店の店長から、ビートルズの売り出しに成功した辣腕マネージャー。

あのミニスカートの女王ツイギーを売り出すとき、彼女のマネージャーが徹底的にその手法をまねたことは有名である。

エプスタインは、ビートルズが功成り名遂げて、公演に興味を示さなくなってから、

“やることがなくなって”自殺したと言われているのだが…。

 

そのジョンレノンも1980年12月8日ニューヨーク市内ダコタハウスの自宅前で凶弾に倒れた。

まだ40歳の若さだった。

 

 

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