アーノルド・シュワルツェネッガー Arnold Schwarzenegger1947年月30日〜 )俳優。

1970〜1975年.1980年Mr.オリンピア

今や有名な映画スターであるシュワルツェネッガーは、伝説のボディービルダーであった。

私は俳優になる前から彼を知っているが、今ではすっかり痩せてしまっている。

「痩せた」といっても、それなりの身体を維持しているが、

昔の彼を知っている人たちにすると明らかに物足りない身体なのだ。

しかし頭のいい彼は、ボディービルダーのような身体のままでは

役柄が限られてしまうということにすぐ気がついたのだろう。

イメージとしてはマッチョマンという雰囲気を残し、芸域を少しずつ広げていったわけだ。

もっとも、彼は最終的には、政治家をめざすのだろうと言われている。

奥さんは、あのケネディ家筋の人なのだ。

 

少年時代の彼は有名な悪ガキだった。

兄のマインハルトは中学時代、風紀上の問題で退学になり矯正施設へ送られた。いじめが原因であった。

アーノルドも少年院には行かなかったが、あやういところであった。

女の子に近づいて本の入ったカバンをひったくり、川の中に投げたり、

兄弟揃って近所の女の子をいじめているのは多くの証言がある。

苦情が父親のもとにいくと、父親はアーノルドに問いただす。

まったく見に覚えのないことだと言い張ると

この父は息子は悪くないと広言し、それでおしまいにしようとした。

 

この父親グスタフは、ナチス党員だった。かつてオーストリアの国民の1割程度はナチス党員になっていたのである。

彼は警察署長であったが、オーストリア警察は警官にナチス党員になることを強制はしていない。

だから、彼は厳しい条件を満たして自らナチス党員になったのである。

 

戦後、グスタフはすでに結婚していたオーレリアとともにシュタイアーマルク州の小さな村タールにやってきた。

警察署長のグスタフは300年前に建てられたかつて男爵が住んでいた二階建ての家に暮らした。

水道がなかった。オーレリアは100メートル離れた泉に水を汲みに行かねばならず、洗濯は村の洗い場でしかできなかった。

板の間に絨毯もないこの家では2階に暮らすしかなかったので、彼女は水や食料をもって2階まで上がらなければならず、やがて心臓を悪くした。

彼女は先夫と死別していたおとなしい未亡人で、再婚した夫には黙々と従った。

 

グスタフの給料は安かったので家計は苦しかった。

グスタフは気性が激しく、飲酒癖があった。

当時、なんの娯楽もないこの土地では酒を飲むのは珍しいことではなかったが

彼は当然のように昼間から飲んでおり、それは村人の飲酒量をはるかに上回るものであった。

 

こうした環境のもとアーノルド・シュワルツェネッガーは1947年7月30日午前4時10分に誕生したのである。(続く)

 


 

アーノルド・シュワルツェネッガー  

 

アーノルドの父、グスタフの子どもへの“しつけ”は近所でも有名であった。

彼は、まだ幼くほんの物心がついたばかりのわが子に対してこういった。

「勇気と苦しみこそが喜びの根源である」と。

どんな困難でも堪えつつ立ち向かうことによってそれは克服できる。

そのあとに待っているのは、「権力」であり「勝利」なのだ。

 

父親は軍隊式に食事のマナーをしつけた。

幼い兄弟は、両脇に本をはさんで食事をしなければならなかった。

 

日曜には好きなことができたが、必ずその日のできごとの作文を書いて、翌日、父親に見せなければならかった。

これは幼い子どもにとっては、とてつもない苦痛である。

 

アーノルドは、のちにボディビルの大会で優勝するようになるのだが、勝利した次の瞬間には、来年のことを考えるという性格になっていた。

「来年も優勝しなければ…」

 

父親は息子たちを競わせた。ボクシング、スキー…どんなスポーツでも、お互いをライバルとして戦わせるのである。

兄弟は自分が優れていることを認めてもらうために競い合うことになる。

勝者は褒めたたえられ、敗者には冷笑と侮蔑の言葉が情け容赦なく投げつけられた。

年下のアーノルドが兄に勝つためには、死に物狂いになっても、簡単なことではなかった。

 

家にはテレビもなく、楽しみとしてはラジオがあるのみであった。

だから彼は自分で“娯楽”をつくらなければならなかった。

いじめである。

彼は父親を恐れるがあまり、その父親と同一化することによって精神の安定を得ようとする子どもの一典型といえた。

 

父、グスタフの“しつけ”の影響は、確かに子どもたちに計り知れない影響を与えていた。

アーノルドは、兄とともに、父親にされたと同じ方法で、他人をあざけり、いじめだした。

当時の彼らを知る村人は、「今は違うが」と念押ししたうえでこういうのである。

 

シュワルツェネッガーのやつらは村の嫌われ者だった。40年前はだれもあの家とはかかわりたくなかったんだ。

 


 

 

アーノルド・シュワルツェネッガー  3

 

13歳になるまでに、アーノルドは村を出る決心をしていた。

独裁者の父と貧困の家庭から逃げたかったのだ。

父親から押さえつけられていたアーノルドは、

憧れのスター、レジ・パークのように超人になることを夢見ていた。

そしてレジ・パークは、たまたま、元ボディビルダーだったのだ。

だから当然のようにアーノルドは、ボディビルダーになることを決めたというわけである。

具体的な将来像というよりイメージが先行していたのだろう。

それもかなり強烈に。

 

1960年代初頭、ミスター・オーストリアはクルト・マーヌルである。

アーノルドにとって、彼こそはオーストリアのレジ・パークだった。

アーノルドは、村の水泳コーチがマーヌルの知り合いだと知って、彼に会わせてほしいと頼んだ。

アーノルドの熱心さに根負けした彼は、マーヌルにボディビルをやりたがっている少年の話をしておいた。

 

おそらくほんの気まぐれから、マーヌルは、ある暑い夏の日曜日、

その少年がいるタールという村の湖に行き、水泳でもしようと出かけるのである。

この気まぐれがアーノルドの運命を変えた。

マーヌルは、14歳の少年の体格と熱意を見て取り、自分の住むグラーツのクラブへ来るように告げたのだった。

 

現在でも多分にそういう傾向があるが、当時のボディビルに対する世間の認識は、芳しいものではなかった。

ボディビルは“目的のない筋肉の増強”であり、スポーツとは考えられてはいなかった。

露出狂の筋肉男たちが空っぽの脳味噌でナルシズムに浸っている…それがボディビルだと考えられていたのである。

しかも、その多くは同性愛者だと思われていた。

こうしたイメージは今でも根強く残っているのではなかろうか。

それでもアーノルドがボディービルの選手になろうという決意はまったく変わらなかったのである。

 

 

 

のちにこの世界で成功し、有名人となったアーノルドは、

クルト・マーヌルのクラブへ出かけ、すぐに自分はクラブの仲間から受け入れられ、

互いに励まし合いながら練習に打ち込んだ…というようなことを述べている。

しかし、実際はまったく違ったようだ。

当時、このクラブでコーチをしていたヘルムート・セルンシックによると、彼の印象はすこぶる悪い。

 

アーノルドはクラブに入ったその日、すでにみんなにおしゃべりだと言われていたよ。

トレーニングを始めてしばらくすると同輩に「5年後にミスターユニバースになってみせる」とうそぶいたので、

みんなで、あいつは頭がおかしいんじゃないかと言ったこともあるよ。

 それにほかの選手をけなすようなことを時々言ったものだから、アーノルドをだれも認めていなかった。

実際、気に障ることが多かったな。

 

クラブのメンバーからは

「自分でトレーニングしろ。ただしゃべるのはやめてくれ」

とまで言われていた。

アーノルドは、あくまでよそ者扱いだったのである。

 

ただ、クルト・マーヌルは最初からアーノルドに熱心にアドバイスしている。

トレーニングをしているときの心構えから、食生活に至るまで、最初からあれこれと教えているのだ。

彼はアーノルドの潜在能力を見抜いていたのだろうか。

 

しかし、当時のオーストリアの栄養学は世界的にみるとかなり遅れをとっていた。

このとき、マーヌルは、筋肉を増強するためには、ステロイド剤も必要なものだとアーノルドに教えているのだ。

マーヌルは、1952年にステロイド剤のことを知る。彼としては“貴重な情報を得た”という程度の認識だったのだろう。

彼はアーノルドにステロイド剤のなかでも一番強力だと言われているプリモボリンを週に2〜3回与えていた。

アーノルドは、ボディビルを始めた当初からステロイド剤の注射をし、錠剤のダイアナボルも併用していたのである。

 

当時、一緒にトレーニングをしていたボディビルダーは、語っている。

 

アーノルドがステロイドの錠剤を飲むのでみんなで驚いたことを覚えていますよ。

ダイナボルを8〜9錠飲み込むと、牛乳を飲み、続けてたんぱく質の錠剤ひと握りほどを口に放り込んで、

まだ口に含んだまま、「よしやるぞ!」と言ってトレーニングを始めてましたね。

 

同じジムの仲間が驚いていたということは、マーヌルがアーノルドに対してだけ特別待遇をしていたということになる。

今日、薬物使用はマスコミでも取り上げられており、一般的にもその危険性が知られているが、

当時は、まだよくわかっていなかった。そのことは言っておく必要があるだろう。

マーヌルとしても、よかれと思ってとった“特別待遇”だったのかもしれないのだ。

 

とまれ、こうしてアーノルドのボディビルダーとしての第一歩が始まった。

 


 

あおい輝彦

俳優 歌手【生】昭和23年1月10日。 東京都出身 本名=青井輝彦 十代はジャニーズの一員として人気を集めたが20歳で独立し、ドラマ分野で活躍。
その後、映画「続・人間革命」「犬神家の一族」がヒット、「真田幸村の陰謀」「二百三高地」、テレビ「水戸黄門」などにも出演。
また声優として人気アニメ「あしたのジョー」の矢吹丈の声が有名だ。安定した演技の実力派。

 

 あおい輝彦は酒豪として知られている。
 別にそれを誇っているわけではない。本当にお酒が好きなのだ。
 1升くらい飲むと酔っぱらうというのだが、まあ、それは当然だろう。

 ふだんそのようには飲まないだろうが、それくらい飲んでいい気分になると、その場でふだん聞けないものを披露してくれるという。

 都々逸である。

 それを聞いた人は何人もいなというが、(そりゃそうだろう。そこまで付き合える人は稀だ)それはまさに至芸だという。

 かつて柳家三亀松という都々逸の名手がいた。
 私も子どもの頃にラジオで何度も聞いた。
 男なのに女を感じさせ色っぽいという不思議な世界…。
 思えば、すごい体験をしたものである。
 いまの子どもたちはゲーム、ゲームなのだから、人間の根本的なものが違うのは当然かもしれない。

 で、あおい輝彦は、その三亀松さんから直接教えてもらった経験があるのだという。
 そのへんの詳しい事情は詳らかにしないが、これはまったくすごいことだ。

 絶品だというその都々逸を是非、聞いてみたいものだ。

 予想以上に粋なオニイサンのようだ。


 一方で、ライフワークは米づくり…。
 田舎に自分の田んぼを所有し、そこで田植、稲刈り、精米…すべてやっている。
 夢は自給自足の生活をすることだという。
 そのために仕事をしているらしい。

 人は見かけによらないものだと、つくづく思う。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

某元アイドル女性歌手(1955年8月20日〜 )

 

あの林真理子との論争(論争にもなってなかったが)の相手になった

「日本のあら探しをしながら日本にい続ける外人」の代表の元歌手が、あの論争のだいぶ前にこんなことを言っていた。

 

「今はどこへ行っても調理した魚があるから、包丁なんて必要ない」。

 

生活の基本を重要視しない態度は、根本的に間違っている。

要するにもともとなんにもわかっていない人だったのである。

だから林真理子が腹を立てて書いたことの意味も全然わからなからず逆ギレしたわけである。

 あの人はなぜだか国会に招かれて演説しているが

 

「赤ちゃんを見たらバブバブしてください」

 

なんて、そんなレベルの内容であった。林真理子でなくても、まともな人間ならキレるだろう。

 それを喜んで聞いていた国会議員も国会議員かも知れないが、まあ、レベルは似たようなものか。


 

 

 

やくみつる(1959年昭和34年3月12日〜 )漫画家

なんでも収集する人がいる。

漫画家のやくみつるもそうである。

あの人は、オウム真理教事件で有名になった江川紹子が吸ったタバコの吸殻を手に入れたといって喜んでた。

 そしたらそれを知った江川紹子が「不愉快だ」と言ったとか。

 やくみつるは、それに対して、「別に変な趣味はないので…」などと弁解していた、

 十分変だと自覚していいのではなかろうか。

 

 それにしても、江川紹子、いまだにタバコを吸っているのだろうか。

 

 


 

 

 

 

ニコラス・ケイジNicolas Cage(1964年〜 )俳優。

1995年「リービング・ラスベガス」でアカデミー賞主演男優賞受賞。

 

4歳のときに怖い夢を見た。

金色のビキニ姿の巨大な金髪の悪霊が大声で笑いながら窓から入ってきて、

トイレの便座に座っている自分を抱き上げるという夢。

悲鳴をあげて目を覚ますと、父親が入ってきた。

 

「白い馬を思い浮かべてごらん。白い馬がやってきて、悪夢を持っていってくれるよ」

 

ケイジは、同じことをわが子ウェストンに伝えたという。

父親のいうことは本当だったからだ。

 

なぜ白馬なのだろう。中国では想像上の動物である獏が悪夢を食べるとされるが、

同じような言い伝えがアメリカにあるのだろうか。

いずれにしても、この息子もまた成長したら、やはりわが子に言って聞かせることになるのだろう。

 

 

 

 


 

 

 

スティーヴン・スピルバーグSteven Spielberg (1947年〜 )映画監督。

 

子どもの頃のスピルバーグは、怖がりだった。

なにをみても恐怖に震えた。

狂ったように泣き叫ぶので、そのために両親はテレビを消さなければならなかった。

そんな怖がりだったのに、彼は恐怖映画をつくっている。

 

怖がるのが好きだった。恐怖は非常に刺激的だ。

映画を制作するうえでも、創作の道具として、

観客に究極の悲鳴をあげさせる策として、私は想像力を大いに活用している。

子どものころから、自分を恐怖のふちギリギリに立たせては、ぐいと引き戻してやるのが好きだった。

 

こういうのは精神分析的にはどういうことになるのだろうか。

子どものときは、彼が語るような理屈ではなかろう。

やはり単純に恐怖が快楽だったのではないのか。

そして泣くのは十分に甘美な行動だったのだろう。

 

「裸者と死者」を書いた作家のノーマン・メイラーは、

なにかを覚えるときには恐怖と戦っているのだと書いている。

 どちらにしても、本来、嫌な感情である恐怖との独特の付き合い方である。

 

 

 

 

 

 

 



 

 

ラクウェル・ウェルチRaquel Welch(1942年〜・一説では1940年〜)は

肉体派女優として一世を風靡したが、鼻の整形をしたと自ら語っている。

父親はスペイン・ドイツ等の血が混じった技術者、母親はスコットランド系イギリス人。

幼い頃にカリフォルニア州に移住した。

学生の頃から美人コンテストに出まくっていた。

1963年に「青春カーニバル」で映画デビュー。

「ミクロの決死圏」「恐竜百万年」等々主演作多数。

全盛期のサイズは167センチ、53キロ。94−58−90であったが、

本人の鼻だけという弁にもかかわらず、

全身整形していないところはないという“整形美人”の噂が絶えない。

 

現在は還暦を過ぎているが、どのようなことになっているのであろうか。

 

 

 

 

 

 



 

 

ルイ・アームストロング Louis Armstrong(1900〜71)は、

ジャズファンでなくてもよく知られたトランペットプレーヤーだった。

歌手としても、独特のだみ声で歌う歌は、温かさにあふれ、聴く耳を持つものたちの心を打った。

意味のない言葉で即興で歌う「スキャット」は彼が始めたものである。

彼はどうしようもない不良少年であった。

1913年の元旦、銃を持ち出して撃ち、逮捕され、そのまま少年院に送られている。

不良少年は、そこでコルネットとトランペットを学ぶことになった。

この偶然をなんと言えばいいのだろう。

もしも、彼がこの少年院に送られなかったら、

ジャズ史上に残る不滅のプレーヤーは誕生しなかったかもしれない。

 

愛称の“サッチモ”Satchmo は、Satchel Mouth(鞄(かばん)のような大口)を略したもの。


 

 

 

 


 

 

 



江藤淳(1933―99)評論家。

亡くなった江藤淳は座談におけるモノマネが非常に巧みであったという。

人物評をする際に、その声音、語り口をそっくりそのまま表現して見せた。

その座談に同席した人物の中には、実際に会っていないにもかかわらず、

その人物に会ったと錯覚してしまった人もいた。

また、そのまねられた声音がそっくり耳に残っていて、真面目な評論をを読んでいても、

その「書き手」の声音が行間から聞こえてきて、かなり印象が違ったものになったほどだという。

 

 

 

 

 

 




 

 

石原慎太郎(1932― )小説家、政治家。

三島由紀夫の「葉隠」が文庫本になって書店に並んでいた。

これかはかつて、昭和42年に光文社から「日本人の知恵」シリーズの第2弾として発行されたものである。

三島由紀夫は、ラディゲの「ドルジェル伯の舞踏会」、そして上田秋成全集を愛読していた。

しかし、ラディゲに対する尊敬も、秋成に対する尊敬も変わらないが、

今では座右の書とはなっていない…と述べて、

実は…というふう語っているのが「葉隠」なのである。

山本定朝が書いたあの「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」という言葉で有名な、

それこそアナクロニズムと言われ兼ねない本を三島由紀夫は愛読書であるとして、この本の解説書を書いた。

ただ、当時、誰も三島由紀夫があのような形で死ぬとは考えていなかった。

常に理性的で、諧謔と逆説に満ちた絢爛たる言葉を駆使して語る三島由紀夫は、誰もがまだ自分たちの側にいる人間だと思っていたのである。

三島由紀夫も十分それは心得ており、この本を紹介するにあたって、こう書いている。

 

しかし、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」というその一句自体が、この本全体を象徴する逆説なのである。

わたしはそこに、この本から生きる力を与えられる最大の理由を見いだした。

 

三島由紀夫が語れば、なるほどそうかと思ってしまう。

もちろん、論理的な説明などには到底なっていない。茫漠たるイメージが広がるばかりである。

それでも、当時の三島由紀夫の言葉には十分な重みと説得力があったのである。

 

今回、発売された文庫本を手にとってみたが、

かつて発行されたときに推薦文を書いていた石原慎太郎の言葉は、見つけられなかった。

さすがの慎太郎も、葉隠を愛読する三島由紀夫に対する推薦文はまずかったのだろうか。

当時、この本に寄せられた石原慎太郎の言葉は次のようなものであった。

 

この自堕落な時代に、多くの男たちは自らを武装することもなく安逸に己の人生を消耗する。

自堕落と安逸のうちに男の矜持と尊厳を打ち捨て、士(さむらい)として失格しながらかえりみることもなく。

だがここに一人の男がいる。

明晰な逆説と皮肉で己を核とした意識の城をきずき、いつも白刃を抱いて美の臥所に寝ている士がいる。

この知的で、かつ、痴的な乱世に、あるときは金色をまぶした七色の甲冑に身をかため、

また、あるときはまったくの裸身で、変化の妖しい士がいる。

その彼が、いつも手放さずにいる佩刀が『葉隠』である。


 

 


 

 

ファイティング原田(1943年 昭和18年4月5日〜 )元・プロボクサー

全日本ボクシング協会会長 元・世界フライ級・バンタム級チャンピオン。62戦55勝(22KO)7敗

 

ボクシングでは階級を1つ上げるとパンチの重さが全然違う。

だからかつて二階級を制覇したファイティング原田は本当に強かったのだ。

原田は世界のボクシングの歴代チャンピオンのなかでも日本人でただ1人、ベストテンに入っている。

フライ、バンタム、フェザーと減量に苦しみながら戦った。

現在は階級をさらに細分化しているので、今なら原田は3階級を制覇し、5階級までを狙ったことになる。

当時はホームタウンデシジョンが多くて、敵地で戦うと判定ではまず勝てなかった。

原田自身本当に負けたのは2敗ぐらいだといっている。

 

具志堅も強いチャンピオンだったが、ジュニアフライというのは、

世界的にみるとやはり競技人口が少ないのだ。

 

そういう意味でいうと柔道の田村選手より、階級の重いクラスで勝つことの大変さを

もう少し日本のマスコミは伝えなければならない。

その田村にも陰りが見えているが…。 

 

 


ジェームス・ディーンJames Dean (1931年2月8日〜1955年9月30日)俳優 

 

ジェーム・スディーンは前歯がなかった。

差し歯だったのである。

ときどき、その差し歯を外してニヤッと笑って見せたりしたという。

 

1955年に車の安全運転のCMを収録している。

 

ハイウェーをぶっ飛ばすよりレース場で勝負しな。

命拾いするのは“俺”のほうかもしれないからさ。セイフティードライブだよ。

 

この数週間後、9月30日、愛車ポルシェスパイダーで事故死した。

事故の2週間前にはスピード違反で切符を切られていた。

 

ジェームスディーンは高校時代弁論大会で全米6位になったことがある。

バスケットボール、野球、なんでもできて棒高跳びの記録もあった。

この抜群の運動神経に過信があったのだろうか。

 

ミッキー安川が書いた自伝的な本によれば、彼がアメリカ留学していたころ

海で一緒に遊んだ仲間にジェームス・ディーンがいたという記述がある。

 

 

 


 

 

ポール・ニューマンPaul newman(1925年1月26日〜 )俳優。

 

「銀の盃」(1955年)の彼の役は、ジェームス・ディーンが断ったために回ってきた役だった。

「エデンの東」ではジェームス・ディーンに主役を奪われた。

「傷だらけの栄光」(1956年)はジェームス・ディーンが事故死したために彼が代わりにやることになった。

 

ジェームス・ディーン同様に車が好きな彼はプロ・レーサーでもある。

1979年6月10日のル・マンに2位入賞を遂げている。

 

第二次大戦中には航空学校を受験しているが果たせなかった。

色弱と判定されている。ほとんど知られていないが事実のようである。

 

 

 

 


 

 鈴木その子1932年〜2000年)。ダイエット、健康食品研究家。

 

イギリスのブレア首相が、ダイエットへの強迫観念抱かせるとして「細身モデル」起用に自己規制呼び掛け

これに関係業界から猛反発をうけたというニュースがあった。

  しかし猛反発とはいうものの、実際、深刻な国内問題と首相は考えたのだろう。

日本でも、テレビに出ている人たちは、やせている。

やせすぎ、あるいは華奢な身体だ。

テレビだと顔が大きく映るので(走査線の関係)、出演者たちはテレビに映し出された自分を見て、たいてい驚くという。

 

平成12年(2000年)12月5日、肺炎で亡くなった鈴木その子は、食べてやせる「鈴木式ダイエット」を提唱したことで知られている。

小さな店1軒から始めて、やがて全国に名が知られるようになり「美白御殿」まで残したが、

まったく知られていなかった頃に、この店のご贔屓客となったのが女優の山岡久乃だった。

偶然この店にやってきた彼女は、鈴木その子が有名になるのにかなり力を尽くしたようでもある。

面倒見のいい彼女にしてみれは、放っておけないようなあやうい商売をしているように見えたのだろう。

 

 鈴木その子は、息子がダイエットに失敗して、2階から落ちて(ふらついて)亡くなったという悲しい経験をしている。

「食べてやせるダイエット」はコロンブスの卵的な奇をてらったもののようにみえるが、そのきっかけとなったのは、

急激なダイエットを試みているうち拒食症となった息子を亡くしたことからだと自らの著書に記している。

食べない若者に食べさせるのは、彼女の信念ともなっていたのである。

このことはあまり知られてないようだ。 

 

彼女はバラエティー番組にも出て、自ら進んで広告塔となっていたところもあった。

「笑っていいとも」にも出演していたが、回答者になっても、

まずほとんど当たらないことが多く、しかし、それはそれでまた面白かった。

ところが、亡くなる直前の「笑っていいとも」では、どういうわけか正解を連発していた。

だからどうだというわけではないが、妙な気がしていたことは確かなのである。

 

 

 


 

桑名正博 くわな・まさひろ 昭和28年(1953年)8月7日〜 歌手、俳優。

元ロックバンド・ファニーカンパニーのリードボーカル。「哀愁トゥナイト」「セクシャル・バイオレットNo.1」などのヒット曲がある。

 

ロック・スターから俳優に転じて成功した者は非常に多い。

どうしてなのか不思議な気もするが、いつもライブで客と真剣勝負をしていたからだろうか。

特別に際立った成功者とは見えないが、意外に評価が高いのが桑名正博である。

ロック仕立てのハムレットを演じたときも、好演した。

彼の持ち味は、よくも悪くもいいところのぼんぼんという雰囲気である。

その発言もどこかたくまざるユーモアがある。

これは大阪ということなのかもしれないが…。

 

“大根役者”の語源はいくら食べても「当たらない」からという説と、「すぐおろされる」からという話を聞いて、桑名はこう言った。

 

オレ、切り干し大根が好きやから、すぐ干される、かと思った。

 

 

 


 

 

 

山本 圭 やまもと・けい 昭和15年(1940年)7月1日〜 俳優。

 

  なぜか、男優が女装したり、オカマを演じたりすると、大ウケにウケることがある。

 演ずる役者たちも、初めは大変なことになったという感じで、深刻なようであるが、

いったん幕が上がってしまえば、案外気分よく演じていることが多い…ように感じられる。

 それまで味わったことのない新しい快感が得られるということなのだろうか…。

 

山本圭は、兄の学、弟の亘とともに山本三兄弟として有名な俳優である。

 テレビの初期には「二十一才の父」「若者たち」(3部作)、

舞台の代表作は「ハムレット」「戦争と平和」「どん底」「リア王」「リチャードIII世」「はつ恋」等々…。

「ムツゴロウと愉快な仲間たち」のナレーションも長年担当し、好評だった。

 

 かつて、なぜだか俳優座でシェークスピアの「お気に召すまま」をすべて男優のみで上演したことがあった。

 このとき山本圭は、シーリアという「お嬢さま」の役を演じることになった。

 普通、この役は可憐な感じを出すことに心をくだくのであるが、山本圭はまったくちがった演技をした。

稽古中の彼は、まったくノリが悪かった。なんだか熱意というものも感じられないのである。

 かつてハムレットを演じた彼であるから、このような役が不満なのではないか…。

 誰もがそう思っていたという。

 しかし、本番が始まってみると、観客は哄笑、爆笑の渦となった。

 密かに演技プランを練っていたものか、彼はシーリアというお嬢さまの台詞を地声のままで喋った。

 台詞は女言葉なのであるから、これは、女になろうとしてなりきれないオカマのようなものである。

 彼がなにか言うたびに、観客は爆笑する。

 なんにせよ、ウケていることはまちがいないのであるから、役者として彼は一気にテンションをあげていく。

 お嬢さま役は大成功だった。

 その日の芝居が終わった彼の楽屋のドアには張り紙がされていたという。

 

 「男性の入室おことわりします。 山本圭子」

 

 

 


 

和田誠 わだ・まこと 昭和11年(1936年)4月10日〜 イラストレーター、グラフィックデザイナー、文筆家、映画監督

タバコのセブンスターのパッケージデザインは彼の手によるものである。妻は、料理研究家、シャンソン歌手の平野レミ

 

かつて篠山紀信とコンビで「漫画讀本」という雑誌の表紙を担当していたころ、

テレビなどに出ている無名の若い女の子を見つけて、「先物買い」するのを得意としていた。

「ホイホイミュージックスクール」の司会をしていた新人がなかなかチャーミングだと、

篠山紀信に告げると、「誰それ?」という返事だった。

当時は、和田誠のほうが見る目があったのである。

木の実ナナが一般誌に登場した初めてのことだった。

 

ダニー飯田とパラダイスキングで一緒に歌っていた女の子は、九重佑三子。

「11PM」が始まったとき、若くて元気なダンサーが出演していた。これは由美かおる。

SKD(松竹歌劇団)のダンサーだったのは倍賞美津子であった。

いずれもまだどうなるかもわからない時に「抜擢」したのである。

 

後年、彼女たちが有名になってから、当時のことを覚えているかと訊くと、

和田誠よりも篠山紀信のほうを覚えていることが多かったという。

篠山紀信はまだ、あの特徴的なモジャモジャのヘアスタイルではなかったが、

このあたりから、モデルをリラックスさせるために面白おかしい話をするテクニックを身につけていたので印象に残ったわけである。

和田誠のほうが、彼女たちを“発掘”したのであるが、現場で寡黙な彼は影が薄かったのだろう。

 

 

ある日、和田誠のアパートに電話がかかってきた。

ヘレン・メリルの相手をしてくれないかという内容であった。

ヘレン・メリルは、musicのコーナーでも紹介しているジャズ歌手である。

彼女は、親日家でたびたび来日していた。(日本に住んでいた時期もあったのである)

彼女が暇になった時間は、ジャズ仲間が付き合っていたのだが、その日は、生憎そういったメンバーみんなに仕事が入った。

“マコちゃん”は彼女のファンだから、今晩食事に連れて行ってくれないか、というわけなのであった。

 

「行く行く!」と二つ返事で答えた和田誠であったが、それでは出かけようと身支度を整えていたとき、ハッと気がついた。

自分は英語が話せないのだと。

 しかし、受けてしまったあとである。当たって砕けろと、彼は出かけた。

 鉄板焼きを食べながら、中学英語を総動員して会話した。

 ヘレン・メリルはいい人で、なんとか理解しようと聴いてくれる。

ニコニコしていたが、あとで考えると、とてつもない言葉をつかうのでおかしかったのかも知れなかった。

 彼女のとの“会話”で、「くまのプーさん」が好きなこと、トーマス・マンの「魔の山」が好きなことがわかった。

 さらに彼女は、「ピーター・セラーズが好き」というので「アラビアのロレンスはよかった」と答えると

「ノー、ノー。ピーター・オトゥールではなくピーター・セラーズ」

と彼女がいうのだが、ヘレン・メリルとピーター・セラーズが結びつかなくて困ったという…。

 しかし、なんといっても「ニューヨークのため息」と会話したのである。

 逆上しても当然なのではなかろうか。

 

 


 

今東光 こん とうこう(1898年〜1977年)作家 天台宗僧侶

今東光の家は、津軽藩士の出であるが、父親の仕事の関係(日本郵船)で、横浜出身となっている。

その後も各地を転々とする少年時代を送ったが、これは、彼の素行にも問題があった。

放校されてしまうのである。学歴の欄には、「中学中退、以下独学」と記した。

それでも文学に目覚めた彼は、やがて作家として有望視されるようになる。

才能あふれる彼の将来を嘱望する者も多かったが、突然、出家剃髪する。(昭和5年・1930年)

天台宗の僧侶となったのだ。このことはいろいろいわれているが、

当時の文壇に力を持っていた菊池寛とぶつかったことが原因だというのが定説である。

 

菊池寛は作家として成功した後、1923年雑誌「文藝春秋」を創刊。

文芸協会設立。芥川賞・直木賞・菊池寛賞を設定、また大映社長として映画の分野にまで活動を広げ、圧倒的な力を持っていたのである。

その彼との衝突は、学歴にもその一因があったともいわれるが、詳しいことは不明である。

学歴はともかく、今東光ぐらい勉強した人も珍しいといわれる。

死ぬまで和漢の書物を手放さなかった。

本当の意味での教養人だったのである。

今東光の終生の友人は、一高時代に知り合った川端康成だった。

 学問を身につけた方法は、川端が通う東大(帝大)に一緒に通って学んだことだった。

ニセ学生としてホンモノの学生以上に聴講にも参加し、図書館へ出入りしている。

 口が悪く、生臭坊主的なイメージがあるが、彼はほとんど酒が飲めなかった。

 直木賞受賞の際、川口松太郎の選評で、かつては“放蕩無頼で酒乱だった”というようなことを書かれているが、

前者はともかく、後者に関しては事実無根である。

 たまたま小学生の頃のエピソードとして、酒を飲んで酔っぱらったといった話を語ったのが、

いつのまにか“小学生の頃から酒を飲んでいた”というふうになってしまったのだろう。

 

川端康成もほとんど酒は飲めなかった。それでも酒席に頻繁に出没していた。

 「ジンフィズ・ウィズアウト・ジン」などと注文していたとか。

 

今と川端は酒の飲めない者同士でウマが合ったのだろう。

 今東光が選挙に出た際には、川端康成は応援演説までしている。

当時は、どうしてしまったのだ川端康成は…などといわれたものであるが、

若い頃からの2人の友情からすれば、当然のことだったわけである。 

 

 


 

 

吉幾三(歌手・作曲家)【生】昭和27年11月11日【血】B型【出】青森県北津軽郡金木町 本名=鎌田善人

 

 

 ある夜、突然、千昌夫の自宅に電話がかかってきた。

 吉幾三だった。

 「俺はぜったいプレスリー」が売れたものの、その後、まったく売れず、大変な時期だったらしいが、

いきなり「伺ってもいいでしょうか」と言われた千は、まだ、余裕があった頃なのだろう。鷹揚に、受け入れた。

 タクシーで行くので、玄関で待っていてほしいという。

 タクシー代がないのだ。

 なんと図々しいと思いつつも、千は、まだ、余裕があったからなのだろう。鷹揚に受け入れた。

話をすると面白い奴だったから、よく家に呼んでいたのだ。

 タクシー代を払ってもらったお礼とばかりに、抱えてきたギターで即興の歌をうたった。

なかなかいい。これはいける。

 2コーラス目に入る時、吉幾三自身、感極まって泣いてしまった。

 素晴らしいと言って先を促すと、

 

 「2コーラス目を聴く前に話を聞いて下さい」

 

 「実は…」と話したのは金の無心だった。

 

 「500万円貸してください」

 

 いくら金持ち(当時)の千昌夫でも、そんな金を家に置いてるはずがない。

 ところが、間の悪いことに、たまたまその日は、500万円あったのだという。

 幾三は、金がないと命にかかわるいうようなことを切々と訴える。 千もまだ、余裕があった頃なのだろう。鷹揚に、受け入れた。

 

「よし、分かった」

 

 しかし、ある程度の金がないと何かあると大変だ。

 

 「10万円は手元に置いておきたい。だから490万円貸そう。それでいいいだろう」

 

と千。

 ところがなんと吉幾三はこういったという。

 

 「ビタ一文まけられません」

 

 これは金を貸して返してもらう時のセリフだろう。

 余裕があった千もあきれたが鷹揚に受け入れた。

 

 「さあ、2番を歌ってくれ」

 

 「即興で作ったので忘れました」

 

 まだ、余裕があった頃なのだろう。千は鷹揚に、受け入れた。

 吉の前に現金500万円を積み上げた。

 すると忘れたはずの即興の歌がするすると出てきた…。

 

 この曲は、千が歌ってヒットした「津軽平野」となる。

 この時の話を千は面白おかしく話すというが、やはり吉幾三の才能を買っていたのは大したものではなかろうか。

 金のことより、やはり音楽の予測のほうがうまかったという話…。

 


 

 

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