エプスタインの発想は、1961年としては誰も考えつかなかったものが多かった。
彼は自分のレーベルのレコードを出したいと考えた。たとえば、「NEMSレーベル」のレコードという意味だ。
大手レコード会社は、いずれもそれは無理だと答えている。小売業者全体に同じ条件で行き渡るようにするのが当然という考え方だからである。
それでもエプスタインは引き下がらず、もしそれを認めてくれるならば、個人として5,000枚のレコードを買い取る用意があると述べている。つまりこれは、レコード会社にとってみれば、まったくリスクがないことになる。
ビートルズのレコードを出すということは、必ず5,000枚分の収入が得られるということを意味するからだ。
そして、エプスタインは、例によって「マイボニー」を聞かせ、バックグループだけを聞いてほしいと言うのであった。
当然ながら、どの会社も、困惑したはずである。
だが、5,000枚分の利益が確実に得られるということは、十分うまみがあった。最初から5,000枚のレコードをプレスするということは、それほど多いことではなかったからだ。興味を示す会社が現われるのは当然だったかもしれない。
EMIは、クリフ・リチャード&シャドウズなどを育て上げたスタッフが「マイボニー」を試聴するが、結局、さほどの魅力を感じず、丁重な文面ではあったが、契約は結べないという文書を送っている。
一般的にはデッカが先にビートルズを聞いて、これを無視したという話が伝わっている。だが、詳しく検証してみると、最初にビートルズを拒絶したのはEMIだったということになる。
デッカのマイク・スミスは、リバプールまで行って直接ビートルズを聴き、ビートルズはロンドンでオーディションを受けることになる。
このときはエプスタインの考えで、メロディーラインのきれいなバラードを中心とした選曲がなされた。
後に、アルバム「ウイズ・ザ・ビートルズ」に収録されることになる「ティル・ゼア・ワズ・ユー」Till There Was Youは、その時、エプスタインの希望にそってポールが歌ったものだ。これはあるミュージカルの中の1曲であり、ペギー・リーが歌ったバージョンを参考にしたものという。これは、ことのほかエプスタインを満足させたようだ。
すべてはエプスタインの思惑通りに進んだ。
あとは結果を待つだけだった。
リバプールに戻ったブライアンは、再びレコード店に戻るのだが、頭の中はビートルズで占められていた。
しかし、家族、そしてNEMSの従業員たちは、ブライアンの行動は馬鹿げた振る舞いでしかなかった。
父のハリーは不機嫌そのものであり、よき理解者のはずの母親も、「ブライアンは、ビートルズがプレスリーよりも人気者になるといったのよ。馬鹿げていると思わない?」などと友人に語っている。
返事はなかなか来なかった。
結論から言えば、デッカにとって、リバプールからやってきたエプスタインが持ち込んだ“ビートルズの件”など、どうでもよかったのだ。
何週間も返事がなかった。
やがて、エプスタインはデッカの担当者に呼ばれる。
食事をしたのちに、彼らは切り出した。
エプスタインを激怒させた言葉は次のようなものだった。
「回りくどい言い方はやめますが、エプスタインさん。我々は、あなたのあのグループのサウンドが気に入りませんでした。グループはもう時代遅れです。特に、ギターを持った4人組のグループはもう過去のものなんですよ」
エプスタインは当然のごとく反論する。
ビートルズは、エルビス・プレスリーよりもビッグになるはずだと。
彼は自分の信念に従って、そう主張したのである。
だが、これは大手レコード会社デッカにしてみれば、とんでもないことだった。
目の前にいる男はちょっとおかしいのではないかと思ったとしても、当然だったのである。
それでも、彼らはなんとかエプスタインの気持ちを鎮めさせようとする。
エプスタインは、リバプールで最大のレコード店経営者であることは間違いなかった。しかも、彼の意見がリバプールのみならず、今や全国にも影響を及ぼすほどの力を持っていることも分かっていた。
そこで彼らは、元シャドウズのドラマーで現在はデッカの製作部長となっているトニー・ミーハンを紹介する。ただし、ミーハンにはアドバイス料として100ポンドを払ってもらいたいと告げるのだが…。
一縷の望みを託して、エプスタインは翌日、ミーハンがいるスタジオを訪れる。
だが、結果は最悪だった。
30分待たされたあとで、ミーハンはこう言ったのである。
「エプスタインさん、私は非常に忙しい人間です。あなたのご希望は大体わかっています。ですから、そのビートルズとかいう連中のテープをつくる日時を決めてくれますか?秘書に電話して、予定が空いているか確認して下さい」
ブライアンは、敗北感につつまれたままロンドンをあとにする。
トニー・ミーハンのアドバイスは辞退すべきだと考えた。
どのみち、デッカがビートルズを歯牙にもかけていないことは明らかだった。
エプスタインはビートルズに最悪の結果を知らせねばならなかった。
ジョン・レノンは、「オーディションのときの選曲が間違っていた。今後、音楽に関しては口出ししないでくれ」と、エプスタインに告げたのだった。
だが、エプスタインはくじけなかった。
ビートルズという存在に敢然として口出しすることになるのである。
強烈な個性の持ち主である彼らを“教育”することを考えたのである。
それは、不可能なことに思われた。
彼らは、いつも革ジャンスタイルであり、ステージ上では勝手なおしゃべりをし、客と一緒に酒を飲んだり、たばこを吸ったりというのが、ごく普通の姿だった。
エプスタインはそれを改めるように何度も注意したが、一向に改まらない。
ここはなんとしても、彼らのリーダーを味方にする必要があった。
しかし、見たところ、ビートルズはワンマンバンドではなかったのだ。
エプスタインは考えた。
ビートルズは、ジョンがグラマースクール時代に結成したクォリー・メンから発展したグループだった。ポールをグループに入れたのもジョンである。
ジョンこそがリーダーのはずだった。
エプスタインは、ジョンを自宅に招き、説得する。
音楽には口を出さない。しかし、ビートルズが成功するためには、もっと小ぎれいな格好をしなければならない。
結局、、渋々という感じではあったが、ジョンはこれを受け入れるのである。
人々は変身したビートルズを見て仰天する。
「ジョン・レノンは反抗心の旺盛な奴だったけど、エプスタインに従ったんだ。乱暴な行動やラフな格好が、彼らの成功にプラスにならないことをどうやって説得したのか、謎だね。ジョンがリーダーでボスだったことは間違いないよ。ポールはメンバーの1人に過ぎなかった。でも、本当にエプスタインがどうやってレノンを説得してスーツを着せたんだろう」
エプスタインの売り込みがまた続けられた。
だが、レコード会社からはいい反応はない…。
そこで彼は、BBCラジオのオーディションを受けさせる。ビートルズは見事に合格。
エプスタインは、彼らに“事が進展していること”を示す必要があったのだ。
1962年夏、ついにエプスタインは、マネージャーに専念することを決意する。
新会社NEMSエンタープライズを設立し、これを拠点にして、本格的に活動しようと。
だが、そろそろ、ビートルズは、現状にウンザリしてきていたのだった…。
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