エプスタインの芸術的嗜好は、基本的にはごく地味なものであった。
しかし、レコード店経営をするようになると、当時、ブームとなったジャズのレコードを輸入販売するようになる。当然、彼は、そうした音楽も聞き込む。
彼の音楽的“目利き”のセンスは抜群であり、すぐに優れたレコードをのコレクターとなっていく。
そうしたジャズ歌手の中には、たとえば、ごく自然にビリー・ホリデイ等も含まれていた。
それまでまったく知らなかった種類の音楽を知ることによって、さらに彼の興味は広がっていく。ブライアンの“勘”は、しばしば従業員を驚嘆させていた。
あるレコードのデモを聞いたブライアンは、5枚注文するはずのところを500枚注文に変更させた。従業員は慌てて、これはそれほど大したレコードではないと言ったのだが、そのレコードは、あれよあれれという間にヒットチャートの1位となったのである。
やがて、このブライアンの“読み”の的確さは業界でも知られるところとなる。
NEMSがあるレコードを大量注文したという情報は、ロンドンのレコード各社の営業部門等に即座に伝えられるほどになっていた。
リバプールの音楽シーンでは、ビル・ハリーという人物が活躍していた。
彼は、学生時代からこの世界の“有名人”であり、21歳ともなると、リバプールのミュージシャンの後見人のような地位を占めていた。
1961年7月6日には「マージー・ビート」という新聞を創刊している。
これにはニュース、写真、ゴシップ記事等が満載されていた。
ハリーは、借金をして、屋根裏部屋といっていいようなオフィスを借り、1人で編集から、記者から、デザインから、すべてをこなしていた。
この狭いオフィスには、既に顔見知りだったジョン・レノンやポール・マッカートニーがしばしば訪れて、世間話をしていったという。
販売もまたビル1人でこなさなければならなかった。
彼は、リバプールの楽器店、レコード店に「マージー・ビート」を配って回った。
NEMS(ノース・エンド・ミュージック・ストアーズ)も当然、その対象である。
ハリーによれば、ブライアンは、とても礼儀正しかった。しかし、新聞のことをきちんと説明して、置いてくれるようにたのんでも、あまり理解は得られなかったという。
ブライアンは、わずか「1ダース」だけもらうと告げたのみだった。
だが、「マージー・ビート」はすぐに売れてしまった。ブライアンは、さらに補充注文するが、これまた、あっと言う間に完売。
新聞を置くことで得られる利益はわずかなものであったが、やがて、この新聞を目当てにやってくる若者たちが増えたのである。
ほどなくブライアンは、ビル・ハリーを呼んで、地元の音楽シーンについてあれこれ質問する機会を持った。
ハリーとすれば、新聞に広告を掲載してくれるのだろうと期待したのだが、ブライアンの口から出た言葉は意外だった。
レコード評を書かせてくれというものだったのである。
地元の有名レコード店主が記事を書くとなれば、自分の信用度が高まることになる。断る道理はなかった。
こうして、ブライアン・エプスタインは、「マージー・ビート」にレコード評を書き始める。
第1回は、ポップスとまったく関係のないミュージカルやクラシックのレコード評を書き、ハリーをあわてさせたが、編集方針を改めて伝えると、ブライアンは、ロイ・オービソンやシャドウズといった人気者のレコード評をそつなくまとめあげて見せた。
そして、ある日、ブライアン・エプスタインは、ハリーに訊ねた。
ビートルズという連中は、どこに行けば見られるのかと。
当時、「マージー・ビート」には、頻繁にビートルズの記事が掲載されていたのである…。
1つの伝説がある。
1961年10月28日。
NEMSにレイモンド・ジョーンズという名の若者がやってきて、こう訊ねた。
ビートルズの「マイ・ボニー」というレコードはあるかと。
ブライアンはそのグループについて聞いたことがなかった。
それで彼は、今はないが、問い合わせてみましょうと答え、メモ帳にこう記す。
ザ・ビートルズ。「マイ・ボニー」 月曜にチェック。
すぐにわかるだろうと思ったそのレコードについては、まったく情報が得られなかった。手掛かりすらないのだ。しかし、これであきらめるブライアンではなかった。
利益のことを考えれば、たった1枚のレコードのために時間と労力を費やすのは無駄なことであったはずだが、彼は仕事に関し、妥協は一切なかった。
再び訪れたレイモンド・ジョーンズが、ドイツで出されたレコードのはずだと伝えると、ブライアンは、わざわざドイツ・グラモフォンに電話する。
ビートルズのレコードはなかった。しかし、リバプールのグループのレコードを扱っているかという問いには回答が得られた。
「マイ・ボニー」というタイトルであったが、グループ名はビートルズではなく、トニー・シェルダンとビート・ブラザースだった。しかし、ブライアンは、それに間違いないと確信し、最小オーダー数である25枚を注文する。
ブライアンは、何かを感じ、レコードが入荷すると、わざわざ店頭に手書きの表示をした。
ビートルズのレコード入荷。
なんと数時間のうちに、レコードは完売。
その日のうちに、50枚を追加注文すると、入荷して3日後には、すべて売り切れたのだった……。
“伝説”では、そのようになっている…。
だが、この話はまったくの作り話だという。
誰あろう、「マージー・ビート」のビル・ハリーがそう語るのだ。
ブライアン・エプスタインの回想録では、レイモンド・ジョーンズという若者がやってきて問われるまで、彼は、「ビートルズ」という名前を聞いたこともなかったということになっているのだが、ハリーによれば、すでに「マージー・ビート」はビートルズの記事を何度も一面で扱っており、ブライアンが知らなかったはずがないというのである。
なるほどそういえばそうである。
あの仕事熱心なブライアンが、店頭におけば、瞬く間に売れてしまう「マージー・ビート」にまったく関心がなく、読みもしなかったとは到底思えない。
このあたりはどのように解釈すべきなのだろう。
ブライアンは、ビートルズを自分の描いたストーリーのまま、歴史に残したかったということだったのだろうか。
ブライアンは、ビル・ハリーからビートルズのことを聞くと、早速、従業員のアリステア・テイラーと共に、彼らが出演しているというキャバーン・クラブに出かけている。
そこは何と、NEMSから歩いてわずか3分ほどの距離にあるビルの地下だった。
1961年11月9日、午後12時30分頃…。
ブライアン・エプスタインとビートルズとの最初の出会いである。
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