予言…
1967年のポール・マッカートニーは、彼自身にとって、充実した年と言えた。
アルバム『サージェント・ペパー…』は、事実上、ポールのアイディアからすべてが始まっているのである。
彼は、今までのビートルズのイメージを根本から覆すような世界を創り上げたかったのだという。
「僕等はビートルズであることにうんざりしていた。ガキの時代は終わったんだ。ギャーギャー騒がれるのも勘弁してほしかった。僕等は以前とは随分違っていた。ジョンと僕以外に、ジョージも曲を創るようになっていたし、映画も作ったし、ジョンは本を出した」
アイディアは、ケニアで休暇を過ごした後、ロンドンへ向かった飛行機の中でひらめいた。
「僕等は僕等でなくなればいい。おなじみのイメージを見せる必要はないんだ。そのためには、別のバンドの形態をつくって、別の仮面をかぶればいい。ジョンや僕が別のバンドのメンバーだと考えれば、自由になれる。ビートルズでなく、別なバンドが作ったアルバムだということにすればいいんだ」
それで彼は「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」という架空のバンドを考えだしたわけである。
ロンドンに帰った彼は、メンバーにこのアイディアを話した。
ちょっと考えたが、結局、他の3人は賛成した。
アルバムのジャケット用に衣装も考えようということになった。
それまでのビートルズとは違った仮面をかぶるわけである。
ポールは、すでにアルバムのデザインまでイメージしていた。
「最初に僕が描いたのは、居間の中でマーロン・ブランド、ジェームス・ディーン、アインシュタインといった肖像画に囲まれて、自分たちも肖像のように座っているというものだった。肖像のアイディアはどんどん広がって行って、ヒーローのリストは膨大なものになった」
この新しいコンセプトによるアルバムの曲づくりの一環としてできた曲には、シングルとして発売になった。「ストロベリー・フィールズ・フォエバー」と「ペニー・レイン」がある。
最初は、レコードのA面が「ストロベリー・フィールズ・フォエバー」B面が「ホエン・アイム・シックスティーフォー」となる予定だった。
この3曲は、「サージェント・ペパー…」のために創られたのだが、ブライアン・エプスタインのそろそろシングルを出すべきだという考えにより、シングルとして発売されたわけである。
「ストロベリー・フィールズ・フォエバー」はジョンの、「ペニーレイン」はポールの曲といっていい。
「レノン=マッカートニー」として曲が発表されているので、日本では、初めの頃、作詞がジョンで、作曲をポールが担当していると思われていたことがある。
実際は、多くの場合、2人が協力して創り上げている。
基本となるアイディアをどちらかが出すと、それにもう1人が違うアイディアをぶつける。そんな具合に、曲は創られていた。
ただ1人だけで完成した曲というのは、ほとんどない。
ほとんど相手の何らかの協力を得ている。
まったく助けを借りずに、1人で創った代表曲としては「イエスタディー」がある。
これはポールの曲である。(契約の関係上レノン=マッカートニーとなっているが)
その他、曲づくりについては、なかなか面白い話があるのだが、それは後述することにしよう。
話は「サージェント・ペパー…」のジャケットデザインに戻る。
エプスタインは、ビートルズからそのアイディアを聴かされて不安になった。
生存している人物には「肖像権」があるからである。
勝手にデザインを決めて、発表した後に、訴えられでもしたら、大変なことになるではないか。それは、当然のことだった。
だが、ポールは楽観的だった。
ビートルズのアルバムに使われることに反対する人間などいるだろうか。
彼は自信満々だった。
もし、訴えられたら、最高5,000万ポンドの賠償金が請求されるという話がポールに伝えられるのだが、あくまでもポールは強気だった。
「結構です、そういうことにしましょう」
しかし、法律の専門家が見れば、そのアルバム・デザインが危険だらけだったのは間違いなかった。
結局、エプスタインは、すでにNEMSを辞めていたウェンディー・ハンソンに、この厄介な問題の解決を依頼する。彼女は、あちこちに国際電話をかけ、必要な許可をすべてとりつけたのである。
エプスタインは、この肖像権の問題をはじめとして、ビートルズの中で1人、ポールが他を3人を差し置いて、あるいは代表するような形で動きだしているのが気になっていた。
やがて、ビートルズは、ポールが中心となって、アップルという会社を発足させた。
エプスタインの秘書であったジョーアン・ニューフィールドが言う。
「アップルを思いついたのはポールよ。ブライアンを一等心配させたのは、いつもポールだったわ」
「電話で文句を言って来るのは決まってポールでした。ブライアンは長時間かけてポールに説明したり、あるいは口論したりしなければなりませんでした。人前では仲よさそうしていましたが、ビートルズが何かゴタゴタを起こしているとき、犯人はポールでした。アップルは、ポールがブライアンにとっての頭痛のタネだということを示す証拠になりました」
エプスタインの秘書の言葉であるから、ポールは「犯人」にされてしまうのであるが、今やビートルズの行動はポールが中心となっていることは明らかだった。
アップルは事業投資をしない場合、300万ポンドの税金を支払うことになるという税務アドバイザーの助言により設立することになったという。
事業ごとに子会社が設立される。
アップルレコード、アップル・ミュージック、アップル・フィルム・アップル出版、アップル・エレクトロニクス…という具合だ。
ジョンの親友にして悪友、あのピート・ショットンもアップル・リテールとして小売店を経営することになる。
しかし、エプスタインは、アップルがビートルズにとって不名誉な結果になると信じていた。
ビートルズはあくまでアーティストに専念すべきであり、ビジネスの世界に足を踏み入れてはならない。経営は専門家に任せるべきだと確信していた。
彼は友人にこぼしたという。
「結成当時、音楽づくりの場から、自分を締め出す賢明さを持っていた彼らが、今ごろになって自分たちにビジネスのセンスがあると思い込むとは、なんと馬鹿げたことだろう」
果たしてその言葉は、あとから振り返ると“予言”そのものとなる。
しかし、偉大な予言者も、自らの行動に関しては、しばしば予言不能に陥ることがあることも事実なのである………。
ハリー・ニルソンの悲劇…ブライアン・エプスタインが、アメリカへの本格的進出を考え、ナット・ワイスにアメリカでの自分をマネージメントさせようとしたことを既に述べた。
“マネージャーのマネージャー”となったワイスは感激し、すぐに行動に移す。
彼はカナダ放送のテレビ番組の司会をエプスタインのために計画した。
1967年の9月2日に、それは予定されていた。
その出演料は、エプスタインのアメリカ訪問の費用すべてが賄えるだけあった。
エプスタインの1カ月のアメリカ滞在は、アメリカでエプスタインの顔を売り、さらなる飛躍のために大きな財産となるはずであった。
準備万端整えて、あとはエプスタインが来るのみという状態だった。
ワイスによれば、エプスタインもまた、やる気満々であり、アメリカに行くのが待ちきれない様子だったという。
それに応えるべくワイスは着々と仕事を進めている。
ワイスは、ハリー・ニルソンというシンガー・ソングライターに注目し、彼を自分たちの仲間として迎えるべきだと考えていた。
ハリー・ニルソンは日本ではニルソンという名で知られている。
あの映画「真夜中のカウボーイ」(ジョン・ボイトとダスティン・ホフマンの名演技で知られている)のテーマソングとして使われた「Everybody’s Talking」がもっとも有名な曲であろう。
彼は、観客の前では一切コンサート活動を行わないというユニークな歌手だった。
90年代に入って、リンゴ・スターのコンサートにたった1回だけ出演したというが、まず、人前で歌う彼の姿を見た人間はいないといっていい。ミステリアスといえばミステリアスな人だった。
それでも彼は、人嫌いというわけではなく、その交遊範囲は広く、多くのアーティストとの逸話が残っている。
彼は来日し、深夜ラジオ放送「オールナイト・ニッポン」にゲスト出演している。
幸運なことに私はこの時の放送を聴くことができたのだ。
このときのパーソナリティーはカメちゃんこと亀淵昭信。
彼はもともとディレクターだったが、宴会での喋りっぷりを見た関係者によって、パーソナリティーに抜擢されたというこれまたユニークな人物。アナウンサーの斉藤安弘と「カメ&アンコー」の名でレコードを出して見事にヒットさせている。
そして現在では、なんとなんと、ニッポン放送の社長となっているのだ。
妹は歌手の亀淵友香。現在は、ビッグ・ママとしてゴスペルソングを歌っているのでご存じの方もあるだろう。
この兄妹の出身地は北海道札幌ということもあり、私は何かと耳目をそばだてていた。
おっと、そういう話ではなかった。
ニルソンである。
ニルソンも十分過ぎるほどユニークな人物である。
オールナイトニッポンでもカメちゃんとなかなかいいノリで話していたが、多分、一杯機嫌だったと思う。(彼はジョン・レノンがヨーコと別居して酒に溺れた生活をしていたときの飲み仲間でもあった)
ニルソンはソングライターとして素晴らしい曲を発表しているが、二度も受賞したグラミー賞の曲は、不思議なことに他人が作った曲だった。
「Everybody’s Talking」はフレッド・ニールの、「Without You」はバッドフィンガーによるもの。
彼は、60年代、コンピュータ・スペシャリストとして夜間だけ銀行に勤め、その一方で曲を作っていた。65年には日本でも「Be my Baby」で知られる女性ボーカルグループ、ロネッツに曲を提供している。
デビューアルバムは、1967年、「Pandemonium Shadow Show」。
一般的にはヒットしなかったが、他のアーティストに提供した曲が収録されており、プロからの評価はすこぶる高かった。
(モンキーズ、ヤードバード、ブラッド・スウェット&ティアーズなどが彼の曲をカバーしている)
69年にスリー・ドッグ・ナイトがヒットさせた「ワン」も彼の曲である。
彼の才能にほれた人は多いが、ジョン・レノンもその1人だった。
ジョンは1974年のニルソンのアルバム「Pussy Cats」をプロデュースし、演奏にも参加している。
ただ、ジョンがヨーコのもとに戻り、復活したのに対し、彼はその後も深酒から手を切ることができなかった。
次第に彼の曲は単調になり、ヒット曲もなくなる。
話題となるのはパーティ会場で彼の起こす騒動ばかり…。
ついには糖尿病や心臓発作という病魔におかされる。
経営していた会社もトラブルにより経営不振となり、さらに長年にわたって不正な財産申告をしていたとして破産宣告を余儀なくされ、彼はなんと刑務所にまで送られている。
そして、再起を期して新たなレコード契約を探していた1994年1月15日、心臓発作によりこの世を去るのだ。
ジョン・レノンとの交流も深かった彼は、レノンよりは長生きしたものの、自らの才能生かすことができなかった。
グラミー賞を二度までも受賞したこの人の晩年は、あまりにも寂しい。
生前のジョンが、酒に溺れていた当時の自分とニルソン等について語っている。
「あれほど酒を飲んだことはなかった。酒の瓶の中で溺れてやろうと思って、芸能界の大酒飲みとつき合っていた。ハリー・ニルソン、キース・ムーン(「ザ・フー」のドラマー)といった連中だよ。僕たちは自制できなかった。自殺をしようとしていたんだな。ハリーは今でもやっているかも知れない。可哀相なやつだよ。神のご加護を祈るよ。ハリー………君がどこにいようともな」
「僕は逃げ出さなければならなかった。人ひとりが死のうとしていたんだからね。キースは死んだ(1978年9月7日)。誰が先に死ぬかといった調子だったんだ。かわいそうに。キースが先に死んだんだ」
名前を言ったあとしばらく言葉が出ないところなど、ジョンはニルソン(ハリー)に対しては、複雑な心境だったのだろう。
いくら手を差し伸べても本人がその気にならなければどうしようもないことをジョンは知っていたのだ。
ブライアン・エプスタインもまたある意味で、ニルソンに通じるところがあったかもしれない。
彼は晩年まで、酒とドラッグから手を切ることはできなかった。
この当時、ビートルズは“悟り”の境地を得るために瞑想に夢中になっていた。
彼らは、エプスタインにも、その素晴らしさを熱心に語り、共に体験しようと持ちかけているのだが、エプスタインは現実から逃れようがなかった。
瞑想などといっているビートルズが、一方で、アップルという会社経営を始め、単なる思いつきとしか見えない「マジカル・ミステリー・ツアー」というテレビ映画の計画をもっていることなど、彼にとっては心配な事がいくらでもあった。
さらに、アメリカ行きが迫っている。
とても瞑想どころでは、なかったわけで…。
胸騒ぎ…
1967年8月25日。
BBCテレビがシラ・ブラックを中心にした連続番組を申し入れてきた。
エプスタインは、ちょっとまえに、ユーロビジョン・ソング・コンテストのイギリス代表として、シラに立候補を勧めていたが、彼女は断っていた。
彼女は、イギリス代表として出場したサンディー・ショーが優勝したばかりであり、続けてイギリスが勝てるとは考えられなかったからだという。
ユーロビジョン・ソング・コンテストは、歴史のあるものだ。
国を代表して参加するというこの大会、政治的な駆け引きがまったくないとは言い切れない要素があるのかも知れない。
そんなときに、BBCからの申し入れは願ったり叶ったりというところだったのだろう。エプスタインはこの実現に努力しようとする。
かねてからのシラの望みのように、単なるポップミュージシャンからショービジネスの世界で活躍できる歌手としてシラ・ブラックを育てようとしているということを彼女自身にも知ってもらえるはずだからだ。
この状況をエプスタインは誰よりもシラに知ってほしかった。
こんなにも、シラのために心を砕いているということを認めてほしかったのである。
だが、彼女はポルトガルで休日を楽しんでいるところであり、なかなか連絡がつかなかった。
週末をキングスレー・ヒルで過ごすことになっていたエプスタインは、秘書のジョーアンにメモを残している。
シラに電報を打って、電話するように伝えてほしいと。
今ならメールでのやりとりが可能だろうけれど、当時は、ほんのちょっとしたことではあるが、随分、その後の結果に違いを生じることになる。
情報の伝達速度のスピードアップは、やはり、私たちの行動に相当な影響を与えているということなるのだろう…。
金曜日の午後、エプスタインは友人たちと楽しく過ごす週末のために、キングスレー・ヒルに向かって車を走らせていた。
7月17日に父親のハリーが亡くなり、旅先から急遽、リバプールに行った時以来、初めての遠出だった。
父親の死は、エプスタインを悲しませた。
未亡人となった母のクイーニーを案じたエプスタインは、服喪期間を終えると、ロンドンの自分の家に近いところに母を招いた。そして、外交的な母のために、アメリカ行きにも誘っている。しかし、まだ、ハリーが死んで間もないからとクイーニーは断った。
夕方、キングスレー・ヒルに着いた彼は、リバプールに戻った母のクイーニーに電話をしている。
エプスタインは、母親を自分の家に住まわせたかったようだが、クイーニーはリバプールを離れることはできなかった。
もし、母が同居に賛成していたらどうだったろう…。
その後の展開に変化はあったろうか。
エプスタインから母への電話は日課のようになっていた。
2日間のんびり過ごし、その後、北ウェールズに行き、マハリシのところで瞑想の修業をしているビートルズと合流する予定だ。そして、いったんロンドンに戻り、その後、リバプールに行くつもり…。
そういったことをクイーニーは聴いている。
ロンドンの友人たちは夕食までに来るはずだった。
この時点では、一緒に行ったジェフリー・エリスとピーター・ブラウンと3人しかいない。
どうしたのだろう…。
エプスタインは不思議そうにしていたという。
ジェフリー・エリスによれば、手持ち無沙汰の状態で、3人はワイン等を何本か飲んでいた。それでも、エプスタインは特に、酔ってはいなかった。
しかし、エプスタインは誘ったロンドンの友人たちに電話をかけるために席を立った。
たが、連休の週末、友人たちは、ほかに予定が入ったり、不在だったりで、やってくる見込みはなかった。
楽しみにしていた週末…。
たった3人では思い描いていたような盛り上がりが期待できないということに、エプスタインは失望していたようだった。
「何とかする…」
エプスタインは、ロンドンに行くと言い出した。
ロンドンに行って友人たちを連れてくると。
しかし、残された2人はどうなるのだ…。
エプスタインは、パーティーの主催者であるはずなのに、そのことはもう頭にないかのようだった。
母親のクイーニーは、土曜の午後7時になっても息子からの電話がないことを不審に思った。
ブライアンからの電話を楽しみにしていたクイーニーは、キングスレー・ヒルに電話をする。
残されていた2人は、「ブライアンさんは用事が出来て、ロンドに戻りました」と伝えた。
クイーニーは、ロンドンのチャペル・ストーリーにあるブライアンの家に電話をする。
「『エプスタインさんはおやすみになっています』と言いました。その次に自分が言ったことで、私は生涯悔やみ続けるでしょう。『じゃあ、そのままにしておいて』って言ってしまったんです」
「以前からブライアンは生活が不規則でした。ですから、その時も、あんまり心配しなかったんです。ピーターやジェフリーも彼は元気だったと言っていましたからね。2人とも心配しているようではありませんでした」
母親の直感であろうか。
それでもクイーニーは、なにか変だという気がしてならなかった。
日曜の午後2時。
再び、クイーニーは、チャペル・ストーリーに電話をする。
……………………………………………………………………………………………
エプスタインの秘書、ジョーアンは日曜の午後、自宅にかかってきた電話に胸騒ぎを覚えた。
電話は、エプスタインのロンドンの家にいる家政婦マリアからだった。
彼女は、連休のところ電話をして申し訳ないのだが心配なのだと告げてきた。
エプスタインが金曜の午後、突然帰ってきて、車を道路においたまま、寝室に鍵をかけて閉じこもったままだというのである。
マリアとその夫であるアントニオ(執事)は、朝、ドアをノックして朝食をすすめた。
返事はなかった。
インターフォンのスイッチも切ってあり、連絡のしようがなかった。
マリアは、主人の行動がなにか普通とは違うように思うと電話してきたのである。
ジョーアンは、答えた。
「ブライアンが日曜の昼まで寝ていたって異常じゃないわ。大丈夫よ」
マリアは安心したようで、電話を切った。
しかし…。
電話を切ってから、ジョーアンは得体の知れぬ不安にとらわれはじめる。
昼食を終えたジョーアンは、チャペル・ストーリーに出かけてみることにした。
その前に、アリステア・テイラーに電話した。
マリアが心配して電話をかけてきたこと。そして、自分もなにか気になるのだと告げたのである。
「チャペル・ストーリーに行ってみるつもりだけど、1人じゃどうも…。あなたも来てくれない?」
面倒くさい気もしたが、それでもテイラーは不満そうな妻を見ながら、チャペル・ストーリーに出かけるために身支度を整え始める。
彼もジョーアン同様、最初は、いつものことだという気がした。
だが、気がつくと、どうしても行かなければならないという不思議な感覚に襲われていたのだった…。
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