シタール…

 ジョージ・ハリソンがインド音楽に惹かれたのは、ほんの偶然からだった。
 映画「ヘルプ」の撮影中、インド・レストランで食事をするというシーンがあり、そこでインドの演奏家がビートルズの曲を演奏することになったのである。
 アレンジャーが苦労の末にインドの楽器用に書き改めた楽譜(「ハード・デイズ・ナイト」だった)をインド人たちが演奏しているのをジョージが聞きつけた。
 どういう状況であったのかは定かではないが、少なくともジョージは、耳慣れないサウンドに津々たる興味を示したのである。

 シタールを手にとった彼は、すぐに基本的なことをマスターした。
 といっても、まあ、要するにメロディーが弾けるようになったという程度だとは思うが。

 アルバム「ラバーソウル」に収録された「ノルウェーの森」では、早速、ジョージのシタール演奏を聴くことができる。

 シタールはジョージにとって魔法の杖のようなものだったかもしれない。
 彼は初めて、ジョンとポールに何も言わせることなく演奏することができたのだから。

 ジョージ・ハリソンがインドの楽器を演奏しているということは、話題となり、当時の音楽雑誌にも盛んに取り上げられていたものである。
 だが、一般的な反応はどうであったろうか。
 私自身のことでいえば、シタールという楽器がいかなるものか把握できず、ギターでも、こういう音は出せるのではないか、などと思ったことを覚えている。
 少なくとも日本人で、ジョージのシタール演奏に感銘を受けたという人間はそう多くはないのではなかろうか。

 だが、外国のミュージシャンたちには、シタールの音はなにやら神秘的なものがあったのだろう。たとえば、ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズは、この楽器に魅せられた1人であり、彼らのヒット曲「黒くぬれ!」で、早速、シタールを使用している。(後にブライアン・ジョーンズは亡くなる)

 キンクスのデイブ・デイビスは「シー・マイ・フレンズ」でシタールを使った。
 ドノバンもすぐにシタールを手に入れた。
 まあ、ちょっとしたシタール・ブームが起きていたのである。

 映画「ヘルプ」の中で食事のシーンが、日本食のレストランという設定だったらどうだろう。
 このエピソードは後に知ったわけだが、ジョージが東洋のシタールという聞き慣れない楽器を演奏していると知った時、東洋の楽器なら日本の楽器でもよさそうなものじゃないか、などと思ったものだ。
 もっとも、当時、そういうことを言っても冗談としてしか受け止められなかったが。

 津軽三味線を演奏するジョージ・ハリソンというのも悪くはないと思うが…やっぱりだめか。

閑話休題。(^-^;


 シタールの名手ラビ・シャンカールは、10歳のときにインドからパリへ行く。
 兄がヒンズー舞踏団リーダーで、家族して移り住んだのだ。
 もともと音楽が好きだったラビは、学校卒業後、アラウディーン・ハーン(「カーン」とも)についてシタールを学ぶことになった。

 1日12時間の猛練習を続けたラビは、21歳ともなると名人クラスの腕を持つようになる。
 国際的な公演活動を続けるようになり、少しずつその実力が知れ渡っていく。
 彼は、ロンドン交響楽団、あるいはジャズ奏者といった音楽家たちとも共演するという柔軟な考え方の持ち主で、伝統的なインド音楽を愛する者たちからは、しばしば非難された。
 しかし、実際にラビの演奏を聴けば、そんな言葉は消えてしまったという。
 彼は実力で、古い考え方の持ち主の口を封じることができたのである。


 ジョージ・ハリソンはインドを訪れ、このラビ・シャンカールについて学んでいる。
 期間は6週間。
 ジョージは、ギターを始めたときのように独習しようとしたようだが、やはりどうにもならなかったのだろう。
 ジョージが6週間で学ぼうとしたのは、やはりビートルズの作品中に使うためのものであって、彼自身がシタール演奏家になろうとしたわけではないと思うのだが、最初の頃は、必ずしもそうとも言い切れないところがある。
 そうとう真剣にシタールを学ぶ姿勢を見せて、ラビ・シャンカールも彼の姿勢を認めていたようだ。

 ラビはシタールを独学しようとするのは無理だとジョージにはっきと告げる。
 適切な指導なくしてはほとんど進歩はないだろうと。

 この頃、ラビはジョージがいかに有名人であるかということがわかっていなかったようで、もっと徹底して学ぶためにインドを訪れるように熱心に勧めている。

 残念ながら、ジョージにはビートルズの仕事があった。
 少なくとも、この時点では、ビートルズから離れてしまうという発想はなかったようだ。
 しかし、ジョージとラビとはその後も友情を保ち続けることになる。
 ジョージにとっては、インドの楽器からインドに対する興味を持ったことが大きなことだったのではなかろうか。


 「音楽を通じて、精神的な部分に到達したんだ。これをきっかけに、僕はヒンズー教徒になった。ヨガや宇宙的なお経を唱えることで得られる高揚感は、クスリなんかで得られるものとは全然違うものだ」

 どんどん、インドにのめり込んでいくジョージを他のビートルズのメンバーも興味深く見守っていた。

 それまでかなりジョージに辛く当たっていたらしいポールも、こんなふうに語り始める。

 「ジョージが偉大なる信仰を持っているということをある意味で羨ましく思う。どうやら彼は、ずっと探し求めていたものを見つけたようだ」


 エプスタインは、どこにいてもビートルズについて質問されていた。

 「ビートルズは本当に解散してしまったのですか?」

 実際、ビートルズファンからすると、いったいビートルズはなにをしようとしているのかわからなかった。

 ジョン・レノンはスペインで単独で出演する映画撮影に入っていた。
 リンゴもこの撮影現場にジョンを訪ねていた。
 (これはおそらくジョンが呼び寄せたのではなかろうか)


 イギリスではもう1年以上彼らの姿を見ることができなかったのだ。
 そのたびにエプスタインは言わねばならなかった。

 「ビートルズの引退なんてあり得ませんよ。ちょっと気分転換をしているんだけです。映画に出たり、曲を書いたり、レコードをつくったりしているんです」

 しかし、エプスタインの周辺にいるものは彼の変化に気づき始めていた。
 もともと彼は、1つのことに集中するとそれ以外は目に入らなくなるタイプであったが、それが際立ってきた。
 何かの仕事にとりかかると、ほかはどうでもよくなった。
 山のように抱えていた仕事は、もはや、コントロールできなくなっていたのである。






屈辱…

 エプスタインの会社は拡張し続けていた。
 最初の頃から比べると信じられないように巨大化した会社は、多くのアーティストと膨大なプロジェクトを抱えていた。
 そのすべての責任がエプスタインにある。


 アメリカのテレビ局から電話が入った。
 緊急の電話である。
 日本でも人気のあったルシル・ボール主演の番組(「ルーシー・ショー」か)にビートルズを出演させてくれないかという依頼だった。
 ビートルズに仕事を頼むということは、当然、それなりの報酬を用意しているということでもある。スタッフが条件を聞くと、それは非常にビートルズ側にとって好条件だった。
 ピカデリーサーカスの角に立っているビートルズ。
 その横をルシル・ボールか通り過ぎる。
 そのあとで、ビートルズだということに気づいてびっくりする…。

 ただそれだけのシーンに、10万ドル払おうというのである。
 会議中のエプスタインに、電話を受けたスタッフが取り次ごうとすると、彼はその言葉を遮るようにして「後にしてくれ」と言った。

 スタッフは、相手に言った。

 「今、お答えするのは無理のようです。会議中なんです」

 しかし、先方は執拗に食い下がる。
 この仕事はビートルズに手間も時間もまったくとらせないということを強調するのであった。

 「それだけの仕事に10万ドル払おうと言っているんですよ。今すぐ答えがほしいんです。5分もあれば済むことじゃないですか。こちらはいろいろ手配しなければならないんです」

 なるほど、そのとおりだった。
 スタッフは再び会議室に戻り、提示金額を紙に書き、エプスタインに手渡した。
 しかし、エプスタインは「まるで1杯のお茶を辞退するように」その話を断ったのである。

 「だから、そいつらにじゃまをするなと伝えてくれ。頼むよ!!ダメだ、ダメだ、ダメだ」

 ちなみに、この電話を受けたのは元、マット・モンロー(「ロシアより愛をこめて」の大ヒットがある)のマネージャーだったドン・ブラックである。
 彼は、映画「野生のエルザ」のテーマソングの作詞をして1966年のアカデミー賞を獲得した才能溢れる人物だった。
 エプスタインもブラックには好感を持っていたはずである。
 ビジネスとクリエイティブな仕事の両方こなすというのは、エプスタインにとって理想的な生き方だったはずである。
 彼のことを“尊敬”こそすれ、意見を聞き入れないというのは不思議な話である。
 このころすでに、彼は精神的な破綻をきたし始めていたのだろうか。


 だが、それを否定する意見もある。
 彼の目的が金ではなかったからだというのだ。
 もし、エプスタインが自分勝手で欲深い人間であったなら、もっと組織的な会社づくりをしたはずである。そして、そこに莫大な資金をつぎ込み、最終的には“売却”を考えるはずだからである。
 つまり、ロバート・スティグウッド(「ステイン・アライブ」「グリース」「グリース2」「タイムズ・スクエア」「年上の女」「サタデー・ナイト・フィーバー」「Tommy トミー」「ジーザス・クライスト・スーパースター」等の制作)やリチャード・ブランスン(ヴァージン・アトランティック航空会社航空会社創立者)のような方法をエプスタインはとらなかった。
 彼には、世界一の金持ちになろうというような野望がなかった。
 むしろ何かで成功すると、ほかの対象に目を向けて、そこで成功しようとした人間だった。つまり、100万ドル稼ぐと、新たな100万ドルを稼ごうとするのではなく、それをそのままつぎ込んでしまうタイプだったのだ。

 エプスタインの仕事の仕方は、一代で家具店を創り上げた祖父がとった方法そのままである。
 それはきわめて家族的な発想だ。
 父親を中心としてすべてが機能する。
 大黒柱の父がバリバリと働いている限りは、家は見事に繁栄していく。
 エプスタインは持ち前の上品さと優雅さで、ビジネスをこなしていった。
 すべての価値判断は彼の感覚によっていたのである。
 だから、今では、信じられないような“ミス”をおかしているのも事実だった。

 たとえば、ビートルズに係わるキャラクター商品の販売などはまったく視野に入れなかった。現在では、そうした商品の売り上げが莫大なものになることは常識である。
 だが、当時のエプスタインにとって、そんなことは問題ではなかった。
 長髪が一般的でなかった頃には、ビートルズのカツラというのも十分に商品として価値があった。まず初めに問い合わせがあったのはビートルズのカツラなのだ。
 ご存じのようにこういった商品はなんでもありである。
 ただ「ビートルズ」という名前さえつけば、売れるのである。
 ブーツ、人形、タオル等々…。
 そうした関連商品の販売許可を求める問い合わせがあっても、エプスタインはすべてを拒否していた。
 そんなことは、ビートルズとは本質的にまったく関係のないものであるというのが彼の考え方だった。
 つまり、エプスタインはビートルズを“利用して儲けよう”という発想がまったくなかったのである。
 ビートルズの人気が国際的なものとなり、世界中から問い合わせが来るようになって、やっとビートルズ関連商品を管理する会社を設立することになる。

 関連商品産業は、エプスタインにとって屈辱的な訴訟問題にまで発展している。
 アメリカの関連商品会社との間で起きた問題は、結局、ニューヨーク最高裁判所にまで足を運ばなくてはならなくなり、その判事室でエプスタインは消耗する。
 時間に追われて十分な準備ができなかったエプスタインは、しばしば言葉に詰まり、不愉快さに顔を紅潮させたという。

 一応の決着をみたこの裁判をめぐる騒動は、彼を深く傷つけた。
 予想もしなかった事で平静を失ったということが、彼には屈辱だったのだ。

 ブライアンはそれほど恥じる必要はなかった。それらについては専門家に任せていたわけであり、恥ずべきは、むしろブライアンの期待を裏切った彼らなのである。

 裁判沙汰にまで発展した関連商品の問題について、ビートルズは責めたという。
 なかでもポールは、「何百万ドルも稼げたのに、きちんと契約しなかったのはあんたのせいだ」…そうハッキリ言ったそうだ。

 これに対しては、あのジョージ・マーティンが反論している。

 「ビートルズはブライアンをきちんと評価していなかった。成功を手に入れてからの彼らは、何かあるとブライアンを責めるようになった。成功をもたらしてくれた彼に感謝する代わりに、当然、自分たちに権利があるものを与えてくれないと言って非難した。彼らはとても否定的な考え方をするようになっていった。ブライアンがなにかで過ちをおかすと、彼らは大声で批判して、どうしようもないマネージャーだと彼をなじった。彼がいなければ、一流になれなかったということも忘れてね」

 エプスタインは“優秀なマネージャー”ではなかったのかもしれない。
 金を稼ぐだけの人間なら、ほかに、そういう人間がいるだろう。
 しかし、ビートルズの成功は、彼なしにはあり得なかった。
 そのことだけは、確かだったのではなかろうか…。







水と油…

 ジョージ・マーティンが、ビートルズのエプスタインに対する態度に批判的だったのは、それ以前のビートルズとエプスタインの関係を知らなかったせいもあるだろう。

 キャバン・クラブに突然現われた別世界の人間に対して、ビートルズは警戒し、信頼するに足る人間かどうかを常に確認しているようなところがあった。
 ジョン・レノンとエプスタインとの関係は、普通の常識ある人間からすれば、まったく理解できないものだったろう。
 ジョンは、エプスタインを日常的にいじめていたとしか思えないはずだ。
 こんな言葉は、ごく普通にジョンの口から出ていたものである。

 「おい、見てみろよ。ユダヤ人のくせにイギリスのパスポートを持ってるぜ」

 リバプール時代から彼らを知っているボブ・ウーラーは、エプスタインがジョンのそうした言葉に耐えられたのは、彼がホモセクシャルだったからだという。

 「彼が普通の人間だったら、とっくに違う仕事を捜していただろうね」

 エプスタインはジョンの天才を信じて疑わなかった。
 天才とつき合うためには、それくらいの忍耐は当然だと思っていたのである。

 ジョン・レノンはジョン・レノンで、辛辣な言葉の裏には必ず繊細すぎる感受性が隠されているという厄介な人間だった。

 ある時、彼はドイツ人女性を泣かせたことがある。

 言葉による攻撃は情け容赦なかった。
 その場にいたエプスタインを指さして、ジョンはだめ押しのように言った。

 「君らは、彼の親戚を600万人殺したんだ」

 ジョンがこうした辛辣な言葉をなげつけるというのは、反対にそのことをひどく気にして、こだわっているということでもあった。彼は、自分の弱さを認めようとせず、まったく逆の態度を示すことで精神のバランスをとろうとするようなところがあったようなのだ。
 それは、親しくなればわかってくることなのだが、初めてそうした言葉を聴けば誰だってショックを受けるだろう。

 エプスタインは、こうした時にも、ジョンの代わりに、ドイツ女性に対して謝罪するのであった。

 エプスタインが、ジョンの考え方、その存在に魅力を感じていたのは明らかだった。最初は当惑していた辛辣な言葉さえも、やがては受け入れてしまっていたのである。

 エプスタインとポールとの関係は、最初から芳しくなかった。
 ポールは初めからエプスタインには「喧嘩腰」だったという。
 エプスタインは最後まで、ポールに対して腫れ物にさわるような態度を崩さなかった。ポールのご機嫌を損ねないようにという気遣いはジョン以上のものがあった。
 なんのかんのといってもジョンはビートルズの中で誰よりもエプスタインを信用しており、それをまたエプスタインも感じていたのだ。
 プスタイン自身は、ポールとの関係は徐々に改善しつつあると考えていた。
 エプスタインが最も批判的になったビートルズはジョージだった。
 ジョージがシタールを始めた頃にも、

 「本筋を外さないように、適当に取り入れるくらいでいいのだけど」

 などと発言している。
 ジョージは、ビートルズの中であまり貢献していない(当時)のに、いろいろと口を出してくることが多いと、エプスタインは感じていたのである。
 ジョージは、NEMSの収支についても知りたがった。かつてのジョージは金銭に執着があった。というより、心配性のところがあったというべきか。彼は自分たちがだまされるのではないかという態度を常にとり続けていたのだ。
 エプスタインにしてみると心穏やかではなかったのも当然かも知れない。


 リンゴに対するエプスタインの評価は、すこぶるよかった。

 「リンゴは実にいい奴さ。一等いいところは、ほかの3人ほど才能はないけれど、そのことを気にしていないことだ」

 リンゴの“才能”についての評価は、作曲能力といった点に限ってのことだろう。
 彼の“才能”については、ジョンの言葉があるので、それを紹介しておこう。

 「リンゴは、リバプールで自分だけの才能でスターになっていた。僕らのグループに入る前からね。だからリンゴの才能はいずれ、どういう形にせよ花開いただろうよ。具体的には、演技の才能か、ドラムの才能か、あるいは歌の才能かはわからなかったんだけども、リンゴには、ハッキリそれとわかる何かがあった。ビートルズに加わろうが加わるまいが、いずれ必ずスターの道を歩んでいただろうね」


 オーストラリア人、ロバート・スティグウッドは英国の芸能関係者で知らぬものはないという人物だった。
 興行主として才能を発揮し、演劇の世界に手を伸ばし、クリーム(エリック・クラプトンがいた)、フー、そしてビージーズといったグループを抱えていた。
 彼の仕事の仕方は、エプスタインとは正反対のものであった。
 繊細な感受性のままに、アーティストとの人間関係を大切にしようとしたエプスタインとは違い、イヌイットにも冷蔵庫を売りつけることができるようなしたたかさがあった。

 このスティグウッドの会社、ロバート・スティグウッド・オーガナイゼーションとNEMSとの合併を知らされたとき、多くの人は、驚きの声を上げた。

 NEMSのスタッフは誰もそのことを知らされていなかった。
 これはまったく不可解な決定だった。
 取締役から秘書にいたるまでの全員が、驚き、憤り、エプスタインを非難した。
 スタッフに何も相談せずに決定したというのはエプスタインらしくなかった。
 NEMSのスタッフはほぼ全員、スティグウッドという人物を気に入っていなかった。そのことをエプスタインは知っており、相談すれば反対されると考えての行動だった。
 しかし、エプスタインはスティグウッドの経営能力を評価していたのだ。合併は必ずよい結果を生むことだろう…。

 しかし、まもなく両者の経営スタイルがまったく違うことが歴然としてくる。
 まったく違った経営方針に戸惑ったのはジョージ・マーティンも同様だった。
 スティグウッドの経営人がNEMSに入って以来、それまであった会社の美点は明らかに損なわれてしまったのだ。
 取締役だったジェフリー・エリスは語っている。

 「まるで水と油だったよ。NEMSは世界一能率的な会社とは言えなかったけど、元気で若々しく、熱意にあふれた会社だったのに」

 エプスタインもさすがに後悔し始めていた。
 ただ、合併がNEMSにまったくマイナスだったわけでもなかった。
 ロック界の大物、ビージーズ、クリーム、フーがその傘下に入ったからだ。
 だが、スティグウッドがビージーズに熱心なあまり、NEMSの資金を“浪費”していることに気づくと、エプスタインは憤慨した。
 エプスタインはスティグウッドがビージーズを“第二のビートルズ”というのも気に入らなかったようだった。

 しかし、とにかくそれでも、エプスタインはエネルギッシュに仕事をこなした。
 アメリカ、ニューヨークでは大勢の記者たちに、クリーム、フー、ビージーズについて熱心に語った。
 しかし、アメリカの記者たちは、そんな聴いたこともない(当時)グループよりも、マネージャーとしてのエプスタインのことを知りたがり、それはエプスタインを上機嫌にさせた。

 表向き、NEMSもエプスタインも順調のようだった…。







シラ・ブラック…

 エプスタインの仕事のメインは、一貫してビートルズであった。
 しかし、早くから彼が見出した女性歌手がいたことは記憶しておいてもいいだろう。

 リバプールの港湾労務者の娘で、速記タイピストとしての勉強をしていたプリシラ・マリア・ベロニカ・ホワイト。
 彼女は、19歳の頃、すでに歌っていた。
 レパートリーを増やすために、彼女はエプスタインの経営するレコード店に出かけてはレコードを試聴し、速記の知識を生かしては、歌詞を書き留めていたという。
 試聴ばかりでまったく買おうとしない彼女は、ビートルズがそうであったように、エプスタインからすれば、迷惑な客だったはずだ。

 子どもの頃からステージで歌うをことを夢見ていた彼女が、初めて共演したのはロリー・ストームのバンドだった。
 この頃、すでにこのバンドのドラマーはリンゴだったから、彼女はずっとリンゴと親しくしている。
 だが、歌手としての才能を高く買ったのはジョンだったようだ。
 彼女はキャバーン・クラブで雑用を手伝い、チャンスがあればステージに立ち歌っていたわけで、すでによく知られた存在だった。
 彼女は、スタンダードナンバーを歌うのが好きだった。
 エプスタインのレコード店で最新ヒット曲を覚えてはいたが、歌うとなると「枯葉」のようなスタンダードナンバーになるのだった。
 しかし、ジョンは、彼女の個性を買っていた。

 彼女はエプスタインから話しかけられるのだが、エプスタインはビートルズを売り出しにかかっていた頃で、リバプールでは有名人である。
 彼女は突然のことにすっかり動揺してしまう。

 「ビートルズのマネージャーなんて、私からすれば映画スターみたいなものだったわ。彼は、身につけているものすべてが凄いんです。本物の絹のスカーフ、カシミアのコート、まるでケーリー・グラントみたい。そんな人はリバプールでは滅多に見かけませんからね」

 エプスタインは、彼女にオーディションをかねて歌わせるのだが、このときは上がりまくり失敗だった。何を歌ったのかは分からない。
 その後、なんの音沙汰もなかった。
 しばらくしたある夜、ジャズバンドをバックにジャズのスタンダード・ナンバー「バイバイ・ブラックバード」を歌い終えた彼女は、客席にエプスタインがいることに気づく。

 いつものように歌った彼女は、エプスタインのお気に召したようだった。

 このとき、あのボブ・ウーラーが一緒にいて、エプスタインにこう言ったという。

 「ブライアン、バカなことするんじゃないよ。彼女は成功しないよ」

 だが、エプスタインは彼女と契約する。
 当時、ジョンの発言はエプスタインの契約相手の選択にかなり影響を及ぼしていた。エプスタインは、ジョンがいうからには、こんなはずではないと思っていたのだろう。
 最初の“オーディション”から9カ月もたっていたのだが。


 「マージービート」は、エプスタインが新たな契約を結んだことを伝えたが、彼女の名前を間違って紹介してしまう。
 プリシラ・マリア・ベロニカ・ホワイト。
 通称、「シラ・ホワイト」は、どうしたことか「シラ・ブラック」と誤記されたのである。
 だが、エプスタインは、それをそのまま取り入れた。
 「ブラック」のほうが、かっこいいというのである。
 かくしてここに、リバプール出身の女性歌手、シラ・ブラックが誕生するのである。

 エプスタインの彼女に対する力の入れよう並大抵ではなかった。
 彼は選曲に入念な準備をし、彼女の才能を花開かせた。
 この頃のエプスタインのセンスは紛れもなく抜群だったのだ。

 ジョージ・マーティンはそのへんのことを語っている。

 「私は彼女のことをリバプールから来たかわい子ちゃんロック・シンガーだと思っていた。歌はうまいし個性もあったけど、バラードは歌えないだろうと思っていた。ところがブライアンはシラのドラマティックな可能性を教えてくれた。彼は自分が抱えるアーティストに関して、素晴らしい洞察力があった」

 シラ・ブラックは英国で確固たる地位を占めるスター歌手になっていく。

 「彼がいなければ、私はトップの座につくことはできなかったでしょうね。私はリバプール出身ですから。リバプールの人間なんて、誰も相手にされなかったんですよ。喋り方のせいです。リバプール人の喋り方はそれだけでハンディキャップだったんです」

 だが、1966年の秋頃になると、エプスタインは一頃の情熱を彼女に対してそそがなくなったかのように見えた。
 シラが公演している会場には、必ず姿を見せるはずのエプスタインが、初日に顔を見せた後、やがて姿を現さなくなった。

 シラは自分がまったく無視されてしまったと感じた。

 NEMSのオフィスに電話して、ブライアンと直接電話をしたいと言っても、対応するのはほかの人間だった。
 会社も、以前とはまったくイメージが変わってしまった。
 かつてなら、心の通い合いといったものがあったはずなのに…。

 「私はブライアンをスーパーマンだと思っていました。なのに、突然、彼も弱い人間の1人だということに気づかされたのです。それは大変なショックでした」

 「悩みがあるのならそう言ってくれればよかったのにと思うと残念です。そうすれば私はもっと我慢できたでしょう。でも、当時は『どうしたっていうのよ!?』という気分でした。私はまだ若かったんです」

 シラはすでに結婚していた。夫のボビーと相談し、エプスタインのもとから去ることを電話で告げたのだ。

 エプスタインは狂ったようになったという。
 彼はすぐさま2人を食事に招待した。
 エプスタインは、自分がずっと悩みを抱えていて体調もよくなかったのだと説明した。

 3人はレストランの屋上にある庭に出た。
 シラは回想する。

 「彼はそこで泣き崩れてしまいました。『行かないでくれ。そんなことしないでくれ、考えなおしてくれ』彼はそういいました」

 泣いているブライアンを見て、2人も泣きだした。

 「家族を別にすれば、私にとって大切な人間は5人だけなんだ。ビートルズと君だよ。どうか、いかないでくれよ、シラ…」

 エプスタインは、このとき、家族のように思っていた彼女が自分の抱えている問題をまったく理解していないということにやっと気づいたのである。

 シラ・ブラックは、彼のもとを去らず、もう一度やり直すことにした。
 しかし、エプスタインが昔どおりの仕事をこなすのはもう無理だった。
 そのことに気づかなかったのは自分の過ちだったとシラは語る。
 ビートルズと並んで誰よりもエプスタインと親しかったはずのシラ・ブラックでさえ、この時までエプスタインの内面を知ることはできなかった。

 一見、すべては修復したように見えた。
 だがエプスタインは、深く傷ついていた。

 薬物への依存は高まるばかりだった…。






愛こそはすべて…

 「ポケット・トランジスター」「恋の汽車ポッポ」という曲名をご存じの方はおられるだろうか。
 森山加代子が全盛時代、この歌をうたった歌手の曲をカバーしている。

 アルマ・コーガン。
 彼女は、英国においてビートルズ登場以前に誰もが認めるナンバーワンの歌手だった。
 1932年5月19日、ロンドンにて出生。兄と妹がいた。
 幼い時から人前でうたうことが大好きだった彼女は、周囲の理解もあり(母親が熱心だったらしい)歌手を志す。
 52年に父を亡くすが、この年、レコード会社と契約し、本格的なプロ歌手として出発するのである。
 日本でも「ポケット・トランジスター」がヒットした際(62年)来日しているのだが、残念ながら、私の記憶にはまったくない。
 昔は、外国からホンモノが来日しても、日本語で歌っていないと受け入れられないようなところがあった。
 「ダイアナ」を歌った若き日のポール・アンカも来日したが、一般的な音楽ファンは、日本語でカバーした山下敬二郎のほうを好んだ。(ちなみに山下敬二郎はNHKの人気番組「ジェスチャー」で水の江滝子と共に出演していた柳家金語楼の息子である)
 だから、日本の女性歌手のカバーでこの「ポケット・トランジスタ」という曲は覚えている。森山加代子が歌っていたので、タイトルは忘れていても、メロディーを聴けば、ああ、あの曲かと懐かしく思い出す人もいるはずだ。
 それほどこの曲はヒットした。

 もっとも、ビートルズ登場以前のイギリスも日本と事情はよく似ていた。
 ほとんどの歌手はアメリカの曲をカバーして、イギリスでヒットさせていたわけで…。しかし、アルマ・コーガンは紛れもなく才能の輝きがあった。
 その笑い声は人を惹きつけずにおれぬ魅力があり、多くの人間が彼女のもとに集ったのである。
 彼女はケンジントンのスタッフォード・コートにある家に、母と妹…サンドラ・キャロンという名の女優であった…と暮らしていたが、そこは自然発生的にできた仲間の定期的な集いの場ともなっていた。

 アルマの家には絶えず来客があり、たとえ朝の3時に出かけても、誰かが顔を出すというような、そんな感じだった。

 リバプールからロンドンへ居を移したブライアン・エプスタインも、このアルマの家へ頻繁に訪れた1人だった。

 何しろ、そこに集るのは音楽関係者だけに限らなかった。
 マイケル・ケイン、ダニー・ケイ、ケーリー・グラント、テレンス・スタンプ、サミー・デービス・ジュア等々…芸能界のそうそうたる顔ぶれが集ったのである。
 エプスタインがアルマの家へ訪れたのは、こうした有名人と知り合いになれるというのも大きかったのだろう。

 しかし、エプスタインの生まれついての魅力は、彼らに遜色なかったようだ。
 アルマの母、フェイ・コーガンは語っている。

 「本物の紳士にお会いできて光栄でした」

 エプスタインは、ジョンの伯母ミミにそうしたように、訪れるたびに花を持っていった。行くたびに必ずなのだから、これは“利いた”のである。

 妹のサンドラ・キャロンも姉がエプスタインと頻繁に電話をしているのを知っている。
 アルマはエプスタインの家に訪れ、何百着もあるスーツに驚いていたという。

 アルマ・コーガンはエプスタインにマネージャーになって欲しかった。
 彼女は、いつも派手なドレスを着ているきらびやかな女性だったが、真はしっかりしたところがあって、ちょっとしたほめ言葉に有頂天になるようなタイプではなかった。
 そんな彼女がマネージャーになってほしかったわけだから、エプスタインへの信頼感は相当なものである。
 だが、残念なことにエプスタインは、自分がマネージャーをする女性歌手はシラ・ブラックただ1人だと心に決めていたのである。
 それでも、エプスタインの心にアルマの占めるスペースが少なくなかったことは確かだった。
 彼は、リバプールの両親に、わざわざ彼女を紹介している。
 これは普通の感覚でいけば、将来を約束するというところまでいくパターンであろう。
 エプスタインは旅先から必ずアマルに絵はがきを送り、みやげを忘れることはなかった。
 もし、エプスタインが結婚するのだとしたら、アルマ・コーガンしかなかったというのが周囲の人間の感想だった。
 彼がホモセクシャルであるということも、なぜか問題とはならなかった。
 妹のサンドラでさえ、そのことは気にならなかったというのだ。

 「その話は、そっとどこかへしまい込まれていましたの」

 母親のフェイがどの程度まで知っていたのかは定かではないが、彼女は2人が真剣に交際しているのだと考えていた。
 彼女がその気になって結婚話を進めようとしても不思議はなかった。
 ユダヤ人でもある母が、アルマとブライアンの幸福を祈っていたのは間違いなかった。

 しかし、やがてエプスタインは、ロンドンにとどまることなく世界中を忙しく飛び回るようになる。
 ハードスケジュールに忙殺され、数カ月間、彼女とは会えなくなっていた。




 1966年10月26日、アルマ・コーガンはガンのために亡くなった。
 34歳という若さであった。

 エプスタインは、ふさぎ込む。
 その落ち込みようはひどかった…。

 1967年、エプスタインがドラッグを常用していることは、もはや公然の秘密となっていた。
 体を気づかうスタッフの言葉を彼は無視し続けた。

 医師からもっと給養をとるようにと忠告されたエプスタインは、別荘を買うことにする。
 そこが、週末にすごす隠れ家となれば、健康も回復することだろう。
 彼は、骨董品、家具、台所用品その他あらゆるものを夢中になって買い集めた。
 そしてスタッフにも言うのだった。

 「ショー・ビジネス関係者のたまり場じゃなく、静けさを味わう避難所にするつもりだ」

 だが、いざすべてが整っても、彼がそこへ“避難”することはほとんどなかった。


 1967年6月25日、アビイ・ロードのEMIスタジオにBBCのカメラが持ち込まれた。
 ビートルズが、全世界4億人の視聴者に向けて衛星中継される特別番組の英国代表として、新曲を披露するのである。
 久しぶりの緊張感で、ジョンはリードボーカルだというのに、放送の少し前からガムをかんでいた。



 不可知なものは あなたにも分からない
 隠されていれば それはあなたに見えない
 本来あなたがいる場所にしか あなたは存在できない
 それは 簡単なこと

 必要なのは愛 愛さえあれば…


 ジョンは語るように歌った。
 All You Need Is Love  「愛こそはすべて」と。

 

 

 

陰と陽…

 結婚せず、独り者であることについて、エプスタインは語っている。

 「私はとても残念なんです。妻や子どもがいないことで、何かを失っているに違いないと思うんです。子どもがいれば楽しいだろうと思いますね」

 妻や子どもを持たないエプスタインが、家族のように考えていたビートルズとの契約が、再び交わされた。

 EMIは契約切れに際して、ビートルズが別の会社と契約するのではないかと危惧していた。しかし、EMIとビートルズとの契約は、エプスタインによって再び調印されたのである。
 1966年中頃、既にEMIとビートルズとの契約は切れており、仮契約という形でレコーディングする状態が続いていたのである。
 EMIはビートルズを離したくなかった。
 この時に結ばれた契約内容は、当時としては異例なものだった。
 ビートルズの印税収入は、レコード小売価格の10%。
 これは、普通の2倍に相当する。(当時)

 エプスタインは上機嫌だった。
 それまで金銭面で、さんざんビートルズに文句を言われてきたが、今回は、アーティストに払われる印税としては最高の条件を引き出したからである。
 しかも、契約期間は9年。
 ビートルズは1970年に解散するのだが、この契約によって、EMIは彼らのソロアルバムを発売することにもなるのである。


 1967年6月…。
 イスラエルとアラブ諸国との間で戦争が勃発した。
 世界中のユダヤ人たちが、イスラエルに資金援助をする動きとなり、音楽関係者の間でも、同様の反応があった。
 エプスタインにも、資金援助を求める話があったが、彼はこれを拒絶した。
 その件には関わり合いたくないと答えたのである。

 これは関係者にとって意外なことであり、驚きでもあった。

 エプスタインは宗教を拒否する人間はなかったが、宗教に起因して起こる諸問題には、きわめて否定的だった。

 「イスラエルの戦争に、協力するつもりはありません。傷ついたイスラエル人と同じように、傷ついたアラブ人に対して憐れみを感じるからです。私には人はみな同じなのです。区別などできません。特定の民族の苦しみにだけ目を向けるのは間違っていると思うのです。私は肌の色、主義、宗教、国籍を超えて人間を理解すべきだと信じています。そのためになら、どんなことでもするでしょう。私の言うことが、曖昧で漠然としたもののように聞こえようとも、世界平和はこうした考え以外にはあり得ないと考えます」

 こうした平和への想いは、ユダヤ人としての彼の生き方を反映していたものだとする指摘もある。

 ユダヤ教にはホモセクシャルを異常者、あるいは哀れむべき病人とする考えがあり、さらに“正統派”を自認する人たちの考え方は、はっきりとそれを糾弾していた。
 聖書の意味を“正確に”伝えることが自分たちの義務であるとの考え方からだった。

 エプスタインは、もの心ついたときには既にユダヤ教徒としての生活を実践していた。
 確かに敬虔なユダヤ教徒そのものであったが、それは、うわべだけだったろうと述べたリバプール時代の友人の話は既に述べた。
 ホモセクシャルである彼は、常に疎外感を持っていたはずだと。

 現在では、ユダヤ社会の中でホモセクシャルを単に異常で、病的で糾弾すべきだとする考え方はなくなってきている。

 「ホモセクシャルを家族に持つ人々は、絶えず孤立感や不安感に悩まされ、攻撃や非難を浴びることを恐れ、救いを求めることすらためらってしまう。われわれは彼らを社会から締め出す時代から、もっと啓蒙された社会へと踏み出したのだ…」

 「ユダヤ教はかつてホモセクシャルを糾弾してきたが、もはやその糾弾を続けることはできない。同胞であるユダヤ人をわれわれの社会に迎え入れる時がきたのだ。われわれ同様、彼らもこの社会の一員になる権利をもっているのだ…」

 こうした考え方が発表され、一般的になってきている。
 現在、たとえば日本でも芸能界にはっきりそれと分かる人たちが、活躍する場を与えられて、大多数の人たちから受け入れられている状況からすれば、それらの言葉はなにやら大げさすぎるかのように思われるかも知れない。
 しかし、宗教上の問題が大きくかかわっていた西欧諸国で、やっぱりホモセクシャルは特別に問題とされたと理解すべきだろう。
 こうした考え方が出るまで、エプスタインは待てなかったわけだが…。


 エプスタインは、自分の考え方にユダヤ教の影響があることを認めている。
 聖典や祈祷の中に“素晴らしくためになること”がたくさん書かれていることも認めていた。
 だが、それらも形式を重んじられることによって、彼には受け入れ難いものとなった。
 彼は、礼拝所では不安感を覚えるほどだったという。


 6月18日、ポール・マッカートニー、25歳の誕生日。
 「ライフ」誌のインタビュー記事でポールがLSD体験を認める発言をすると、イギリス中の新聞はこの話題に飛びつき、一斉に書き立てた。

 ポールはエプスタインに電話で弁解する。
 ちょっと試してみたと言っただけだと。
 当然、エプスタインにコメントが求められることになるはずだ。
 エプスタインの悩みがまた増えた。
 眠れぬ一夜を過ごした彼は、「自分もLSD体験がある」と発表することを決意する。

 「1つにはポールを楽にしてやるためでした。人は誰でも孤立するのはつらいものですから。そして、2つ目に、私自身、事実を隠していられなかったのです。幻覚剤のドラッグには多くのよい効果があると私は信じていますし…。皆さんはシスコのヒッピーたちを惨めな若者たちだとお思いでしょうが、彼等はわが国の指導者たちよりずっと素晴らしいことを実践しているのです」

 同時に、このとき裁判中であったローリング・ストーンズについても言及している。

 「彼らがスケープゴートにされたのは残念です」

 「彼らはドラッグに飢えて“手を出した”のではなく、それは“実験”だったのです」

 よかれと思った決断は、波紋を広げていく…。



 1967年の夏。
 エプスタインの友人たちは、彼の気分や態度が、陰と陽との間で激変するのに気づき始めた。
 仕事をこなしながらも、彼が“寂しそう”なのがはっきり分かったという…。



 

 

 

 

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