孤独…
イギリス アメリカでの記録破りのコンサートツアーが続く。
どこへ行ってもビートルズは、もみくちゃにされた。
その結果、彼らは、混乱を避けるために、ホテルから楽屋へ移動するだけで、一切、外出しなくなったのである。
身の回りの世話をする者たちも、それは同じだった。
彼らは、付きっ切りでビートルズの世話をすることになった。そうした者たちまで、まったく外出できないということは、普通、考えられないが、これはビートルズの意思だった。
自分たちが外に出られないということに対する反発なのか、あるいは身の回りの世話をする人間が知らない人間になるのが不安だったのか、おそらく両方の理由で、ビートルズはいつも彼らと共にいた。
やることといえば、それぞれの部屋でトランプをしたりギターを弾いたりすることしかなかったのだが。
今や、彼らは望んでいたことをほぼ達成していた。
それは間違いなく彼らが待ち望んでいたものに違いなかった。
最初のヒットが出て以来、おそらく、かつてなかったほどのハードスケジュールを彼らはこなしていた。
エプスタインは、とにかく彼らを露出させること、多くの人たちに認知させることを主眼においていた。
出演料などは、驚くほど安かった。
ほとんど無名の時代、相手が驚くような出演料を主張して、ビートルズが特別なものであることを認めさせようとしたのとは、明らかに違う作戦だった。
ビートルズは人気投票でもずっと1位を保っていた。
それは彼らを満足させたはずである。旅公演で、自分たちが一体何者であるかを確認する目安は、そうしたものでしかなかったのだ。
彼らは自信を持ち、自分たちがほめられると喜び、逆に批判されると、苛立った。
1965年6月12日。
ビートルズに大英帝国彰勲章(Member of the Order of the British Empire)を与えられることが発表される。
このニュースは日本にも即座に報じられた。
だが、それは、ちょっとした物議をかもしだしているという話題と共にだった。
ビートルズの叙勲に対して、これまで勲章を受けていた人たち(枢密議員から戦時中の防火団員に至るまで)から抗議が殺到したのである。
世界中からMBE勲章を送り返されるという騒ぎにまでなった。
数年後に、当時を振り返ったジョンの言葉が面白い。
「MBEをもらうことになって、みんなが考えたように、僕等も妙な話だと思った。ありがた迷惑なだけだった」
「なんだと思っているんだ。馬鹿げている。みんなでそう言ってた。だけどそのうちに、お遊びだと思えばいいような気がしてきた。貰ったからといって損するわけじゃない。むしろ、このことでカンカンになって怒っている連中をもっと怒らせてやろうと話を決めたのさ。そういうものを信じている奴らにあてつけてやうって」
「宮殿では、侍従に説明を受けた。歩き方からね。何歩進むかとか、女王陛下に拝謁するときの態度までことこまかに。とにかく侍従の言うとおりにしたのさ」
「女王陛下は、ご自分のなさっていることを心から信じていらっしゃると思った。女王としては、信じないわけにはいかなものね。僕はジョン・レノンというごく普通の人間だ。しかし女王陛下は、ご自分が普通の人間ではないと考えなければならない。それは確かなことだと思う」
ブライアン・エプスタインは、ビートルズの叙勲を心から喜んだと伝えられていたが、実際は、そんな簡単なことではなかったようである。
エプスタインが情緒不安定になった1つの原因として、“ビートルズが勲章をもらったのに自分には与えられなかった”ということがあるというのである。
そして彼自身、自分がホモセクシャルであること、ユダヤ人であること、そうしたことが原因なのだろうと考えたのだと…。
実際、どうしてエプスタインに勲章が与えられなかったのかといぶかる人たちがいたのは事実であった。それは、あれやこれやの噂話を呼んだわけで…。
エプスタインはあるパーティで、酒に酔った映画俳優から、「MBEをもらいそこなった奴がいるぜ」などと言われたこともあったのである。
ポールは記者会見のとき、MBEはミスター・ブライアン・エプスタインの頭文字だと語っている。
エプスタインはこれを大いに喜び、その後、何カ月にもわたって、友人たちに、この話を繰り返し語っていたという。
しかし、それほど喜んだということは、やはり、もらえなかったショックは、予想以上に大きかったとみるべきだろう。
ビートルズの叙勲が話題になった1カ月後、エプスタインは黄疸にかかり、寝込んでしまう。
普通、原因は疲労であるが、やはりショックによる深酒も原因したのではなかろうか。
リバプールで知り合いだったユダヤ人芸術家、ヤンケル・フェザーの言葉が思い出される。
彼によれば、ブライアンの終生の目標は、典型的な英国紳士として認められることにあった。
「だから、ビートルズがMBEをもらったのに、彼がもらえなかったのは、最大のショックの1つだったんだ」
1966年、ある変化が起きてきた。
それまで、ビートルズの演奏の際には、ステージ脇で見守り、至福の時を堪能しているかのような表情のエプスタインだったが、この頃からビートルズとの間には険悪な雰囲気が漂うようになった。
エプスタインが楽屋に入ることが、歓迎されなくなった。
初めは冗談半分のような感じだったが、やがてそれは深刻なことになっていく。
エプスタインとしては、ビートルズが表紙になっている雑誌とか、話題になっている記事を見せて、話をしに来るのだが、その出鼻をくじくように、ビートルズは彼らの不満を投げかけた。
もともとエプスタインは論争が得意でない。
リバプール時代も、音楽関係者から反対意見を言われると、結局は怒りに顔を紅潮させながら席を立ってしまう、そんな人間だった。
エプスタインは「ニュー・ミュージカル・エクスプレス」のオーナー夫人と親しくしていた。
感情豊かで、鋭いところのあるこのユダヤ人女性は、当時のエプスタインについて誰よりもよく分かっていた人物かも知れない。
ある夜、彼女は、エプスタインの泊まっているホテルのバンガローから、マリファナのにおいがただよってくるのに気がついた。
彼女はエプスタインを叱った。
「ブライアン、何やっているの?あなたは有名人で重要人物なのよ。こんなところで捕まっていいわけ?」
部屋に入った彼女は、酒で赤くなった顔のエプスタインが、すすり泣いているのを見るのである。
「彼は深い悩みを抱えていたわ。その原因は、多分、彼がゲイでユダヤ人であるということだった思うの」
「彼は孤独が怖いと言っていたことがあったわ。でも、たいていの場合、人間は自分で自分を孤独に追いやっているものよ」
混乱…
エプスタインの演劇に対する想いは、未だに消えていなかった。
彼は、自ら演技することを諦めた代わりに、劇場のオーナーになることを思いつくのである。
計画は、意外に簡単に実現する。
バーナード・デルフォントとの付き合いで、劇場を借り受けることができたのだ。
だが、商業演劇を成立させるためには、なによりも“売れそうな芝居”を確保しなければならない。ところが、彼は、商売よりも彼自身の芸術的趣味を優先した。
さらに彼は、少ないとは言えない費用をかけて劇場を新築する計画を立てる。
そこで一流俳優を起用して、現代劇、古典劇の祭典を行い、最終的にはそのままロンドンに持ち込もうという構想だった。
だが、ケント州ファーンボロは、その建築許可を認めず、遠大な計画はあっけなく頓挫する。
それでも、エプスタインの演劇に対する情熱は薄れない。
劇場のオーナーになったということで、それまで抑えていたものが一気に噴出したようだった。
エプスタインは、演劇制作そのものに手を出そうとした。
彼は、アラン・ブラスターの戯曲「ア・スマッシング・デイ」をロンドンのレスター・スクエアのはずれにあるニュー・アーツ・シアター・クラブで上演することに決めた。
演出は、RADA(英国王立演劇学校)の学長ジョン・ファーナルドに依頼する。
RADAは言うまでもなく、彼が俳優を目指していた頃に学んでいた学校である。
すべては順調に進んでいた。
だが、開幕2日前に、ファーナルドが病気になる。
この結果、最終的なリハーサルは、エプスタイン自身が監督することになったのである。
だが……。
出演者は、延々と待たされることなる。
約束の時間、正午になっても、彼は現れなかった。
午後3時になっても姿を見せない。
劇場から電話を受けた秘書がインターフォンでエプスタインに声をかける。
劇場へ行くはずではなかったのですかと。
エプスタインは「気分が悪い」と答えた。
しかし、その声は明らかに涙声だった…。
駆けつけた関係者によって、やっとエプスタインは劇場に姿を見せる。
この言葉が効いたという。
「エプスタインなしで、一体どうすればいいのだろう」
エプスタインは、失敗を恐れていたのだ。
あのビートルズを売り出し、世界的な成功をもたらした男がである。
それほど恐れていたにも係わらず、監督役を引き継ぐと、彼は生き生きとそれをこなした。
開演初日、レノンとリンゴがやってきた。
その他音楽関係者で劇場は満席となる。
エプスタインは、まさに幸福の絶頂にいた。
ところが、新聞の演劇評を読んで、彼の態度は一変した。
「評は悪くありませんでした。しかし、絶賛とまではいきませんでした。彼は新聞の評を読んでガックリと落ち込んでしまいました。そしてすっかり取り乱してしまったんです」(当時の演劇協力者)
エプスタインは、大成功という結果しか思い描いていなかったのである。
彼が選んだ戯曲についてはよくわからないが、芝居そのものはごく地味なもので、少数の観客に対して演じるべき種類のものだったらしい。
だが、彼はそうしたことに気がつかなかった。
大成功するには大きな入れ物でという感覚だったのだろうか。
巨大なステージをこなすようになったビートルズと共にいて、彼の感覚は、麻痺していたところがあったのかも知れない。
「ア・スマッシング・デイ」は1カ月上演されたが、エプスタインはほとんど姿を見せなかった。
彼は、失敗が許せなかった。
いつも成功し続けるなどということはあり得ないはずであるが…。
ビートルズは大人になっていた。
彼らは経験を積み、自信を持ち、ハッキリとした自分の考えを主張するようになっていた。
しかし、言葉や態度ではつれなくしても、相変わらずビートルズが一等信頼しているのはブライアン・エプスタインなのであった。
それを彼が知らないはずはなかった。
彼はビートルズを全世界に知らせるという役目を終えてはいたが、それでご用済みというわけではなかった。
ビートルズがさらなるステップを踏み出すためには、やはりエプスタインは必要な人間だった。
しかし、問題となったのはエプスタインの精神状態だった。
彼は、あまりにも多くの事に手を出し過ぎていたのだ。
そして、彼は誰にも相談することなく、すべてを1人でやろうとしていた。
秘書のジョーアンは、エプスタインが大量の薬物に依存していることに気づいていた。
彼はすでに“ひどい薬物常用者”だったという。
興奮剤と鎮痛剤を交互に飲み、しばしば両方のバランスを失っていた。
ジョーアンも同じ薬を飲んでいたというが、彼女が半錠飲むと2晩眠れなくなったという薬を、エプスタインは日常的に1錠そのまま飲んでいたという。
当時のエプスタインに対する彼女の言葉は驚くべきものだ。
「興奮剤で辛うじて生きている」
それが彼女の印象だという。
エプスタインの情緒不安定さは、周囲の人間なら、昔から、誰もが気づいていたことだが、秘書であった彼女によれば、薬物による影響がそれに拍車をかけていたようだ。
「落ち着いた様子で、素敵で優しい笑顔を浮かべていたかと思うと、突然、残酷で横柄で傲慢になるんです」
事はかなり深刻な状況になっているようだった…。
トラブル…エプスタインが疲れていたのと同じように、ビートルズも旅公演にウンザリしていた。
1964年8月のアメリカ公演の頃から、それは目立った。
それは1つのサイクルの終わりだったのかも知れない。
ハンブルグでは、延々と8時間以上演奏し続けても、演奏すること自体が喜びであった。日ごとに、相手がやりたいことがわかるようになっていた。
目と目で分かり合えた。
だが、今では、それも変わりつつあった。
そうした経過をジョージが語っている。
「ハンブルグからリバプールに戻って、演奏時間はずっと短くなったけど、それでも楽しかった。リハーサルなんて一度もしなかったな。あとになってからは、そうもいかなかったけど、キャバン当時は、やりたいようにやれた。自然になんでも飛び出してくる感じだった。ジョークも笑いもとても自然だった」
「旅公演に出ることになって、最初はよかった。短い時間の演奏でさえ、芸に磨きがかかったといおうか、さらなる始まりの下地となった。しかし、世界中に出かけて演奏するうちに、毎日、お客さんは違うのに、自分たちは同じことをやっているということになってきた。それに誰も聴いてくれやしない。自分たちはそれまで身につけたクズを見せているという感じで、音楽家として最低になっていた」
それを受けるように、リンゴが言う。
「自分たちの演奏をダメにしたのは、聴衆の騒音だった。最後には自分でも半分は音が聞こえないんだ」
「ホールの場合だと、勝手に場所を決められてしまった。お互いに位置が離れ過ぎてね。ステージ演奏のときは、レコードより早く演奏することにしていた。なぜかというと、自分たちの演奏が自分たちに聞き取れないからだよ。時々、自分で入りまちがえることがあった。曲のどこを演奏しているか分からなくなるからなんだ」
「最後には、誰も旅公演なんて嬉しくなかった。いろいろな土地で演奏をしても、これはひどいなあと思ったものだよ。自分たちは何も与えていないんだ。その時なんだよ、僕たちと同じように聴衆のほうが嫌わないうちに、こんなことは中止すべきだと決心したのは」
1966年、ビートルズが来日し、武道館で演奏をしたことは既に述べた。
日本の厳重な警備態勢は彼らには驚きであったが、とにかく“無事”に公演を終えたことは事実である。
だが、このあと、フィリピンでの公演がけちのつき始めだった。
フィリピンでは2回の公演が予定されていた。
午後4時と8時半が開演時間である。
1回目の公演前に、マルコス大統領夫人を表敬訪問すべきではないかという話があった。
そう、あのイメルダである。
最終的な決定はビートルズ側に任せると告げられていた。
提案された時間は午後3時だった。
エプスタインは確約しなかった。
しかし、イメルダは、当然、ビートルズが来るものと思っていたのである。
彼女は多くの人々を招待し、総数200名にも達した。
用意されたテーブルには、座る位置まで指定されているという正式な催し物そのものだった。
午前11時に、軍の警備隊がビートルズを迎えにやってきた。
考えられないことだった。
旅公演で疲れているビートルズは、まだベッドの中にいる。
エプスタインは予定にないことだと彼らに告げる。
役人たちがスケジュールを確認するように言ったが、もちろん午前中の予定はなにもなかった。
「馬鹿げている。ビートルズはまだ寝ている」(エプスタイン)
警備隊は宮殿に引き返した。
1回目の公演は“無事”に終わった。
エプスタインはホテルに戻り、テレビを見ていた。公演の報道ぶりを確認しようとしたのである。
ところが、意外なことになっていた。
“ビートルズが大統領夫人を侮辱した”というニュースが報じられていたのである。
テレビ画面には、用意されたテーブルの座席を示すカードが取り払われるところが映し出されていた。
大変なことになった。
エプスタインには、まったく予想し得ないことであった。
ビートルズの一行は、この国で大統領夫人に招かれるということが、どれほど重要なものか理解できなかった。
エプスタインはテレビ局に連絡すると、声明を発表したい旨、告げた。
テレビ局はこれに同意し、ただちにホテルにやってくる。
エプスタインは、カメラに向かって、ビートルズはまったく侮辱する意図などなかったこと、もとより正式な招待を受けていなかったこと等を説明したのである。
だが、事態はただならぬことになっていた。
彼の語っている様子はすぐにテレビで放送されたが、彼の声の部分だけが意図的に聞き取れぬように乱されていたのだ。
電話が、ホテルや大使館にかかり始めた。
「ビートルズを殺す」という脅迫電話である。
翌日…。
ビートルズ一行に、フィリピン国民の憎悪が向けられていた。
ホテルの従業員が荷物を運ばず、用意されるはずのリムジンは来ず、タクシーに乗ると、明らかに遠回りをしているのがわかった。空港に行かせまいとしているのである。
空港でも、まったく協力するものはなかった。
大量の機材や荷物も自分たちで運ばねばならない。
空港全体が、まるでストライキの状態である。
飛行機に乗るまで、彼らは群衆の怒号の中を通らねばならなかった。
滑走路にまでも人々は押し寄せ、ビートルズ一行を小突き、殴った。
ビートルズの4人は辛うじて守られたが、エプスタインは殴られ、蹴られた。
飛行機に乗り込み、離陸すると、ビートルズは歓声を上げたという。
助かったという想いが思わず声に出たのだろう。
イギリスに戻ったエプスタインは、これまでの蓄積した心身の疲労が一気に出たのか、ダウンしてしまった。
このため、彼は次のアメリカ行きを延期した。
休養をとることもいいだろう…。
だが、エプスタインの休養も長くは続かない。
ビートルズのアメリカ公演の様子を知らせる電話が、ただならぬ内容だったからだ。
アメリカでは、ジョン・レノンの発言が、なにか深刻な事態を巻き起こしつつあるようだった……。
バイブル・ベルトでの演奏…
1966年8月、第4回目のそして最後のアメリカ公演が行われる。
この公演の5カ月ほど前、ジョン・レノンは「ロンドン・イブニング・スタンダード」のインタビューで、次のようなことを述べていた。
「キリスト教はいずれなくなるだろうね。力を失って、衰えていくだろう。僕の言っていることはいずれ証明されるさ。僕等は今じゃ、イエスより人気がある。ロックンロールかキリスト教か、どちらが先に消えるかは知らないけど。キリストは立派な人だったけど、弟子たちは鈍感で平凡な人間ばかりだった。キリスト教をダメにしたのは、イエスの考え方をねじ曲げてしまった弟子たちだね」
当然、インタビューをした記者による手が加わっているものと思うが、この記事が発表されても、イギリスでは特に問題にはされなかった。
いつものジョンの毒舌だという程度にしか受け止められなかったのである。
ところが、この記事はアメリカの雑誌に大々的に転載されたのだ。
アメリカのオフィスには抗議の電話が殺到した。
バイブル・ベルト(Bible Belt)と呼ばれる地帯がある。
そのまま訳せば聖書地帯となるが、アメリカ南部と中西部には、聖書の記述がすべのそのまま事実であると信じている人たちが集中して住んでいる地帯があるのだ。
火の手はそこから上がり、やがてアメリカ全土に飛び火して行った。
アメリカの秘密結社クー・クラックス・クラン(KKK)が現われて、バイブルベルト地帯でビートルズ人形をつくり、それに火をつけ、ビートルズのレコードが投げ込まれた。
彼らの音楽を放送禁止としたラジオ局も多数あらわれた。
病気で療養中のエプスタインは、(「腺熱」…体中のリンパ節がはれて高熱を出すという病気だった)ただちにアメリカ行きの手続きをとった。
ニューヨークに着いたエプスタインは事態の深刻さを知ると、万が一に備えて、コンサートをキャンセルしようとした。
エプスタインは記者会見する前にジョンに電話をしている。
コンサートを行うためには、ジョンが謝罪するしかないとエプスタインは告げた。
それ以外にビートルズの安全は確保されないだろう。
だが、ジョンの答えは簡単だった。
「謝る理由がないよ。心にもないことを言うくらいならコンサートを中止したほうがいい。発言を取り消す気はない」
エプスタインは記者たちの前で、彼なりに最善と思われる釈明をした。
つまり、数カ月前、ロンドンでジョン・レノンが記者に語った言葉は、間違った形で引用されてしまった。ジョンは、ごくローカルな記事になると思って発言したのに、ああいうような形で紹介されてしまったのは、予想外なことであった…。
たが、肝心なところが抜けていた。
ジョンは社会現象として、今やビートルズのほうが人気があるといっただけで、キリストよりビートルズが「偉大だ」などとはまったく言っていない。そのことこそが重要だったのだが…。
エプスタインの記者会見は終わったが、それでもまだアメリカは、アメリカ国民は納得しなかった。
ジョン・レノン本人が現われて、彼自身が語る言葉を聞きたがった。
もはや、エプスタインも打つ手がなかった。
再び、彼はジョンに電話する。
コンサートは行うべきだというのが、アメリカのプロモーターたちの考え方だった。
ジョン自身の言葉があれば、ファンたちは納得し、騒ぎも鎮静化するだろう。
しかし、エプスタインには、フィリピンでの出来事がまだ記憶に新しかったのだ。
慎重の上にも慎重を期さねばならない。
彼は緊張感ただようシカゴのホテルの一室で、ジョンと語り合った。
現在の状況を可能な限り詳しく説明した。
事態は深刻である。しかし、事情をきちんと説明すれば、もともとアメリカはビートルズを愛しているのであるから、コンサートは問題なく行えるだろう。
キャンセルはいけない。中止でもしようものなら、大変なことになってしまうだけだ。
この時、なんとジョンは、頭を抱え泣いたという。
信じられないことだ。
果たして本当のことだろうかと疑問にさえ思うが、考えてみれば、このときジョンは、まだ26歳の若者なのだ。
おまけに、数カ月前、フィリピンで危険な目に遭ったばかりだった。
ジョンが泣いている姿はエプスタインにはショックだったろう。
そんなジョンは見たくない…。
だが、今はそんな場合ではなかった。なんとか事態を収拾しなければならない。
その後も話し合いが続くが、ジョンは断固として謝罪を拒否した。
エプスタインは、ジョンのスピーチに自分の考えを盛り込もうとしたが、それも拒否された。
結局、ジョンの記者会見は、まったくこれといった準備をしないままに行われたのである。
「あのときは、若者にとってキリストや宗教より僕たちの方が訴えかけるものがあるんだと言っただけで、キリストをけなしたりするつもりはまったくありませんでした。事実としてああ述べたまでなんです。社会現象としては本当のことですから。特にイギリスではそうだと思います。僕らの方が優れているとか偉大だとか言ったわけじゃないし、とにかくキリストと自分たちを比較しているわけでもありません。発言に他意はなかったんですけど、間違って受け取られたんでしょうね。これだけ騒がれるんですから」
「あの記事に書いたようなことは一言も喋っていません。反宗教的な不愉快なことを言うつもりなどまったくありませんでした」
(※「あの記事」というのはイギリスの雑誌を引用したアメリカの雑誌の記事のことだと思われる)
ツアーは決行された。
コンサート期間中、宗教関係者により、コンサートにでかけた若者たちを許すようにと祈りを捧げる集会が行われたという。
だが、コンサートは大成功だった。
バイブル・ベルトでの演奏は、彼らのベストだったとも言われている。
皮肉なことだが、毎日、毎日、同じことの繰り返しにウンザリしていたビートルズが、久しぶり緊張感を持って行った演奏だったということもできるのである…。
alone and lonely
「もうたくさんだよ」
そんな言葉を何度も聞かされていたエプスタインは、まだ事態の深刻さに気づいていなかった。
彼は、ビートルズの“苛立ち”をマニラでの恐ろしい体験や、ジョンの「キリスト発言」による一過性のものだと考えていたのである。
ロンドンに戻り、休養をとれば、また大勢の観客が恋しくなるに決まっている。
エプスタインは楽観的だった。
あるいは、そう自らに言い聞かせていたのかも知れない。
ビートルズの魅力は、生の彼らの演奏をにあるということを誰よりも信じていた彼は、二度と彼らのライブを体験できなくなるなどということは、受け入れることができなかった。
そんなはずはないのだ。そんなことがあってはならない。
エプスタインは、いつもそうだった。
不愉快な事実が起きつつあっても、それを見ようとしない。そんなことはまったく存在しないかのように振る舞う…。
それがエプスタインの生き方だったのである。
「二度とコンサートツアーはしない」とビートルズが宣言しても、エプスタインはその発言を無視し続けた。
エプスタインの会社は、ビートルズを筆頭として十分な利益を生んでいたが、すべてのアーティストが満足すべき活動を続けていたわけではなかった。
売れない歌手を抱えていたことは事実であるが、それでもエプスタインは自信満々に見えた。
必ず売れると思った曲がほぼ100%の確率で売れていた頃とは違って、彼の予想は外れることが目立ってきていた。
その意味で彼の面目はかなり失われていたが、それでもまだまだその威光が衰えることはなかった。
なにしろ彼は、あのビートルズのマネージャーなのだから。
直感力、そして驚くべき集中力と勤勉さ、それがエプスタインの成功の源であった。
彼は誰にも教わらず、自らの信じるままに行動して成功したのである。
だが、今、彼は問題を抱えていた。
劇場に関するエプスタインの経営努力はことごとく外れていたのだ。
彼が選んだ脚本で、彼が選んだ役者で、彼が選んだ演出家で、すべてが行われた。
彼は人任せにすることができなかった。
劇場運営すべてにことごとく首を突っこみ、しばしば経験豊富な演出家の怒りを買った。
しかし、エプスタインのそんな“努力”にも係わらず、観客席が満席となることは少なかった。劇場は休館となることもあったのである。
しばらくすると、エプスタインは、イギリスのビートルズファンたちからの怒りに直面することになった。
あの「殺害予告」まであったアメリカでコンサートをしていながら、本国のイギリスでコンサートをしないのはどういうわけだというのである。
その理由を説明しろ。
もしかして、ビートルズは解散してしまったのか?
「ビートルズが本来、人前で歌ったり演奏するのが大好きだということを忘れないでください。でも、今やそれが簡単なことではなくなってきたんです。経済的な問題ではなく、彼ら自身が神経過敏になってしまっているんです」
「でも『リボルバー』のようなアルバムを出している限りは、それ以上のことを望んではいけないのかも知れません」
「ビートルズについていろんなことを言う人がいることは承知しています。しかしそんなことを言う人は、ビートルズがビートルズであり続けるために直面するさまざまな困難な問題について考慮してくれない人だといえるでしょう」
エプスタインの持って生まれた、ゆったりとした語り口、落ち着いた態度によるこうした言葉は、やがて、ファンたちの気持ちを静めることになる。
ファンもビートルズが、今や普通の存在ではないのだと考えることで、自分を納得させることができたのである。
ブライアン・エプスタインのカリスマ性は健在だった。
彼はこの危機的状況を脱することで、今なおその実力者ぶりを発揮していた。
しかし…。
一般的なイメージのエプスタインは実に分かりやすく、受け止めやすいものであったが、周囲の人間たちにとっては、まったく違った。
当時、エプスタインの個人秘書を務めていたウェンディー・ハンソンは最も事情を知る人間の1人である。
「彼の仕事ぶりは、一定のパターンがありませんでした。混乱しているのが分かりました。なにかといえば、チャペル・ストリートに引きこもってしまうのです」
“必死になって”彼をかばったというウェンディーは、エプスタインに振り回され、何度も秘書をやめようとしている。
しかし、そのたびにエプスタインに慰留された。
気まぐれな行動で彼女を追い込んでおきながら、エプスタインは彼女がやめることは許さなかった。
「今夜、一緒にどこか行こう。辞職は認めないよ。夕食をおごらせてくれ」
ウェンディーは、ビートルズが人前で演奏しなくなったことが、エプスタインに影響していることがわかっていた。
だから、本格的に演劇に取り組むべきだと勧めるのだ。
これまでのように何もかも自分でやるのではなく、才能があるのにくすぶっている人材を発掘し、そうした若い才能にチャンスを与えるというようなことにこそ、エプスタインの力が発揮できると考えたのである。
「やりなさいよ!やってみるのよ!なにもボップ・ミュージックに人生を捧げることはないのよ」
その言葉が十分効果を発揮したことを見計らって、彼女は最も重要な問題に話を移した。
「生活を立て直さなくちゃだめよ。まず、ドラッグをやめなきゃ」
「私はうまく言い聞かせたつもりでしたが、実際には彼はごまかしていただけだったんです。彼はこういいました。『僕は有名すぎるから、クリニックに通うわけにはいかない。だから、自宅で努力するしかないな』」
この頃、エプスタインの周囲にいた人たちの意見はほぼ似たようなものである。
「彼はいつでも何かの役をもらって演技しているようでした。1日中ね」
「ブライアンはいつも格好をつけてましたよ。自然に振る舞うことなんてほとんど見たことがありません。彼はとても寂しい人間でした」
「どんな人間でも安定した人間関係を持ちたいと願っている。結婚とかね。彼の場合はそれが叶わなかった。でも寂しさと孤独は違うんだ。彼の場合は孤独というより、寂しかったんだと思うな」
リボルバー
ビートルズが成長し、大人になりつつあるのは明らかだった。
彼らがいよいよ自己主張を強めると、エプスタインは自分の役割がなくなるのではないかと恐れ始めていた。
ビートルズはツアーを中止してしまったが、そのことを知っているのはエプスタインだけである。会社の人間にすらエプスタインは知らせていなかった。
そんなことを言えば、ビートルズが解散してしまうのだと決めつけて、スタッフはパニックに陥るのではないか。そして、なんとなく士気の低下が見られたオフィス全体が、ますます落ち込んでしまうに違いない。
エプスタインは、相変わらず誰にも悩みを告げることができずにいた。
ビートルズはコンサートにはでないが、レコーディングは続けるといっている。
しかし、そんな形で存在するアーティストなどあり得なかったのだ。
歴史的事実として、ビートルズはコンサートを行うことなく、レコード発表だけで人気を保ち続けるのだが、当時としては、そんなことは誰も考えられなかった。
1966年8月5日に発売されたアルバム「リボルバー」は、コンサートツアーを行わなくなる少し前に発表された作品である。
この年の前半、旅公演もなく、映画も企画されていたが、結局、中止となり、久しぶりにまとまった時間がとれた。
だから、彼らは、レコーディングに十分な時間をかけることができたのである。
彼らが、いかに音楽的な向上心に飢えていたかが窺われる作品となっている。
ちなみに、「プリーズ・プリーズ・ミー」が、たった1日でレコーディングされたことは特別としても、初期のビートルズはレコーディングにあまり時間をかけていなかった。
正確にいえば、「かけていなかった」のではなく、「かけさせてもらえなかった」。
彼らのレコードが売れるとわかり、自由にスタジオを使えるようになるのは、「ラバー・ソウル」(「ミッシェル」「ガール」「ノルウェーの森」等々)からだった。
それまでは、何時間で終われとか、録音は三度までとか、相当な制約があったらしいのである。
それでいて、あんなにいい曲を残しているのだから、やはり彼らは普通ではない。
ビートルズはあらゆる意味で革命的であったが、このレコーディングという面においても変わりなかった。
現在、当然のこととされている技法のほとんどは、彼らがアルバムを発表する過程で生み出されているのである。
コンサートで観客の熱狂がすごくて自分たちの音が聴こえなかったという言葉を述べていたことをすでに紹介した。
現在の感覚からすれば、信じられないのかも知れない。今ならおそらく簡単にクリアできる問題だろう。
しかし、そのことでもわかるように、当時は、まだまだ音を自在に操作する技術がなかったわけである。
レコーディングにおいても、それは同じだった。
たとえば、音に厚みを加えるためにはオーバーダビング、つまり何度も同じ部分を歌うといったことがなされている。
現在では、一度歌うだけで、それと同じことが機械技術によって可能なのだ。
当時は4トラック全盛時である(いわゆる一発録りは2トラックと呼ばれる)。
しかし、「リボルバー」では、参加したエンジニアが7トラックまで使える方法を考案している。これは画期的なことだった。
このアルバムの後、長い沈黙を経て発表されるのが、あの「SGT. PEPPER’S LONELY HEARTS CLUB BAND サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」であることを思えば、この「リボルバー」は、もっと注目されてもいいアルバムかも知れない。
このアルバムのレコーディング完了と同時に、ビートルズは再び公演に出る。
日本公演は、この「リボルバー」というアルバムのレコーディング終了直後に行われたわけである。
このアルバムでは、ジョージ・ハリソンの曲が3曲含まれていることが目を引く。
「タックスマン」、「ラヴ・ユー・トゥ」、「アイ・ウォント・トゥ・テル・ユー」
ジョージの作曲家としての才能が花開いたと見る向きもあるが、果たしてどうだろうか。
「ラヴ・ユー・トゥ」は、このころ夢中になっていたインドの楽器シタールをフィーチャーした作品である。ジョージのインド音楽への憧れは、このあと他のメンバーたちをも引き込むことになるのだが、ビートルズの音楽を振り返ったときに、シタールはあまりにもその部分だけ突出しているような気もする。
このアルバムでも、やはり、一般的には「タックスマン」のような曲が受け入れやすいのではなかろうか。
ただ、その「タックスマン」も、ジョージの作品には間違いないが、ジョンの助けを得て完成した作品でもあることが分かっている。
生前のジョンがこの時のことを話している。
「ジョージは僕に電話で、助けてくれって頼んできた。僕に電話したのはポールには言えなかったからだよ。その頃なら、ポールはジョージを助けはしなかった。僕も自分自身とポールとの曲で手一杯だったからから、気乗りはしなかった。でも、僕はOKした。“ジョンとポールの時代”が長く続いて、ジョージは取り残されていた。その当時、ジョージはまだソングライターではなかったんだ」
実際、ジョージは、これまでのアルバムで、1〜2曲ボーカルを割り当てられていただけだった。
彼には、レノン=マッカートニーの作品に協力する役割が求められていた。
もともとジョージはギタリストとして上達することに熱心だった。ジョンとポールが楽器を持つと、すぐに曲を創ろうとしたのとは好対照である。
ビートルズが有名になるまでは、それで十分だった。
レノン=マッカートニーの創作意欲は途方もないものであったから、次々に創られる曲を“ビートルズの作品”として磨き上げ、完成させるために、ジョージは必要とされていた。
しかし、ジョージは、アルバムで歌う曲をなんとか自作曲でまかなえるようになりたいと考えるようになったのである。
彼がとった方法は、テープレコーダーに思いついたフレーズをどんどん録音していくというものだった。
「あとから再生してみると、その中に使えそうなフレーズやパッセージが3つか4つある場合があるんだ」
「ひとつの機材では時間の無駄としか思えないようなフレーズでも、ミキシングしたり録音したり、場合によってはダビングしたりすると、可能性が出てくるんだ」
こうして完成した曲をジョンとポールに聴かせるのである。
「ジョンとポールに曲を聴かせるのはいつもためらっていたよ。彼らには1回聴かせただけで納得させなければならなかった。だから尻込みして聴かせずしまい込んでいる曲がたくさんあった」
「REVOLVER リボルバー」1966年8月5日発売(英)
「タックスマン」「エリナー・リグビー」「 アイム・オンリー・スリーピング」「ラヴ・ユー・トゥ」「ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア」「イエロー・サブマリン」「シー・セッド・シー・セッド」「グッド・デイ・サンシャイン」「アンド・ユア・バード・キャン・シング」「フォー・ノー・ワン」「ドクター・ロバート」「アイ・ウォント・トゥ・テル・ユー」「ゴット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ」「トゥモロー・ネバー・ノウズ」
(※このアルバムのジャケットデザインは、ハンブルグ時代の友人、クラウス・フォアマンが担当し、グラミー賞を受賞している)
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