アメリカ…

 エプスタインは“アメリカ進出”について考えていた。
 イギリスで成功し、ヨーロッパでも人気を得たからには、そうした考えは当然のことだというふうに思うかもしれないが、それはいささか違う。
 当時、ポピュラー音楽はアメリカ全盛だった。
 たとえイギリスで、あるいはヨーロッパでトップに立ったところで、それだけの話である。
 ごくローカルな話題でしかなかったのだ。
 エプスタインには、そのような“大それた考え”を実行に移すだけの力はなかった。それは、漠然とした想いでしかなかったというのが正確なところだろう。

 だが、ここに1人の人物が登場するのである。
 シド・バーンスタイン。
 コロンビア大学出身のこの小柄な男は、昼間、ジェネラル・アーティスト・コーポレーションで週給20ポンドのエージェントとして働いていた。ロックではなく、むしろ大人向けの音楽に係わることが多かった。
 シド・バーンスタインは、昼間の仕事が終わるとニューヨーク・スクール・オブ・ソーシャル・リサーチというところで勉強していた。
 イギリス政府に関する研究を続けていたというのだが、純粋に学問的な興味からであったのかどうかは定かでない。ただ、自分の仕事と結びつけて考えるということは自然なことであろう。

 教師は、彼にイギリスの新聞を読むように指導していたという。
 アメリカにいながら、シド・バーンスタインは、イギリスの事情通となっていたわけである。
 そんな彼に、当時、イギリスの新聞紙上を賑わせていたビートルズの記事が目に入らないはずがなかった。毎日、毎日、ビートルズの話題は断えることがなかった。
 それを読むことは、彼の職業からして当然だが、面白くて仕方がなかったのである。彼は、一般紙に飽き足らず、ポピュラー関係の新聞までもすべて講読するのだった。
 そしてついに決心する。
 リバプールにいるブライアン・エプスタインへの電話をである。



 彼は自己紹介し、自分がビートルズに並々ならぬ関心を持っていることを伝え、アメリカ進出の計画はないのか尋ねた。
 エプスタインの返事は慎重だった。
 アメリカ進出の希望は持っているが、まだビートルズの曲はアメリカではラジオでも全然かけてくれず、ファンもまったくいないのだと答えている。
 事実、このときシド・バーンスタインもビートルズを聴いたことがなかったのである。
 それでも彼は語り続けた。
 エプスタインは、もちろん、シド・バーンスタインについてはまったく知らなかった。しかし、相手が真剣であることは電話を通しても感じられたのだろう。

 「ところで、ビートルズをニューヨークのどこに出演させようというのですか?」

 「最も権威あるホール、カーネギーホールです」

 エプスタインはもともとクラシック音楽ファンであり、クラシック音楽の大演奏家たちがそのホールで演奏することを知っていた。
 あの場所でビートルズが演奏できる!!それは、エプスタインを狂喜させた。
 もっとも、このときシドは、カーネギーホールに何らかの働きかけをしていたというわけではなかった。それでも彼は具体的に話を持っていく。
 エプスタインが時期を尋ねたのに対し、半年後ではどうかとシドは答えた。
 エプスタインは反対した。

 「ラジオで曲を流させなければいけないんだ。まだ自信がない」

 それでは、来年の2月12日ころではどうかとシド・バーンスタインは言う。
 2月12日はリンカーンの生誕日であり、カーネギーホールをおさえることも可能だと彼は知っていた。

 結局、エプスタインはそれを了承する。
 電話での約束が交わされた。
 ただし、1963年の末までにアメリカでのヒットがなければ、この約束はキャンセルできものとした。書類による契約は行われていない。
 エプスタインは多くの場合、書類の交換を行わなかったという。

 ところで、ビートルズにもアメリカの壁があった。
 かつて、トニー・シェリダンのバックバンドとして演奏したビートルズの売り込みで、ことごとく断られたあのときのように、アメリカもビートルズには関心を示さなかった。
 大手のキャピトルは「プリーズ・プリーズ・ミー」を買おうとせず、仕方なしにマイナーレーベルから発売したのだった。しかも、契約条件は最低だった。
 次のヒット曲 「シー・ラブズ・ユー」は違うレーベルから出してみたが、やはりなんの反応もなかった。
 今ではまったく信じられないことであるが、これは事実である。

 エプスタインのよりどころは、ジョージ・マーティンの言葉だった。

 「ビートルズは実際にライブを見なければ、そのよさがわからない」

 事実、ジョージ・マーティンは、実際に彼らを見て、聴いて、レコーディングを決断したのだった。
 エプスタインは、なんとしてもアメリカの人気テレビ番組に出ることだと考えていた。しかし、それにしたところで、ヒット曲が欲しい。


 アメリカではシド・バーンスタインが、可能な限りの弁舌を尽くして、“イギリスを熱狂させたビートルズ”を売り込んでいた。
 「エド・サリバンショー」の番組プロデューサーたちは、ついにこれを受け入れる。

 NEMSのエプスタインのオフィスに電話がかかる。
 不在だった彼の代わりに電話を受けたのが、あのピート・ショットンだったというわけである。

 ただし、この出演には金がかかった。
 おまけに、ビートルズは、当時の彼らからするとごくわずかな小遣い銭でしかないような出演料でこの番組に出るのである。
 だが、エプスタインはそれだけのことをする価値があると考えた。
 とにかくビートルズを見てもらわなければ、聴いてもらわなければ…。

 1964年1月、ビートルズはパリにいた。
 オランピア劇場で3週間連続のコンサートが開始されていた。
 エプスタインにロンドンのオフィスから衝撃的な電報が届く。

 アメリカの音楽雑誌「キッシュボックス」で「アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド(日本タイトルは「抱きしめたい」)」が1位になったというのである。

 ビートルズは、アメリカを十分意識し、アメリカのゴスペルソングをイメージしてこの曲を作っていた。その目論見は見事に成功したわけである。
 第1週には80位台、2週目は40位台にいたこの曲は、3週目にしてついに全米第1位となったのである。

 そして、それまで何の反応もなかった曲「シー・ラブズ・ユー」が「抱きしめたい」を追うかのようにグングンとヒットチャート上昇し始めた。
 アルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」も、まさにトップになろうという勢いだった。

 近く「エド・サリバンショー」に彼らが出演するということが俄然、注目された。
 728人の入場定員に対し、5万人の入場券希望が殺到した。


 アメリカでも、何かが始まろうとしていた。

 

 

 

アメリカ…2

 「初めてのときはいつも心配だった。外には表わさないけれど、みんなナーバスになっていた。アメリカ行きは大変なことだった。イギリスでは、どうしてアメリカに行かねばならないんだという批判もあったんだ」(リンゴ・スター)

 「あのクリフ(クリフ・リチャード)だって、アメリカでは失敗したんだぜ」(ジョン・レノン)

 こうした不安を彼らが抱いていたとは信じられない気がするが、事実だった。
 イギリスでのビートルズの人気は、もう行き着くところまで行ってしまっており、あとはもう下降するしかないと囁かれだしていたのである。
 新聞の風刺漫画でも、ビートルズ風のヘアスタイルをした政治家に、

 「これはまた古いヘアスタイルをなさっている!!」

 など言っているものが登場していた。

 「みんなが、今度はデイブ・クラーク・ファイブだなんて言っているしね。とても不安だった」(ジョン)

 (※デイブ・クラーク・ファイブは「ビコーズ」をヒットさせた)

 1964年度2月7日。
 ビートルズはロンドン空港からアメリカへ向かった。
 機上でもビートルズの不安は消えなかった。
 イギリスで、ヨーロッパで成功したからといってアメリカで成功する保証はなかった。たまたま読んだ記事にアメリカ人が自分たちに批判的だというものも目に入った。

 午後1時35分、ケネディ空港に到着。
 彼らの不安は一掃された。

 そこには、1万を超える若者たちが歓声を上げて彼らを待ち受けていたからだ。



 「エド・サリバン・ショー」のリハーサル…。

 ジョージは体調を崩し、臥せってしまい、出演できそうもなかったが、本番には麻酔をうって出た。

 「エド・サリバン・ショー」が放送されている間中、ニューヨークでは路上に駐車した車のホイール・キャップさえ盗まれなかった。
 それどころか、アメリカ国内で若者による犯罪はただの1件も発生しなかったと記録されている。

 翌日、すべての新聞がビートルズを論じていた。

 曰く

 「ビートルズは宣伝が75%、ヘアスタイルが20%、あとの5%が調子のいい嘆き節」

 曰く

 「ビートルズの純度100%の錬金液(エリクサー)から比べればプレスリーは、ドタバタとうるさく生ぬるいタンポポ茶にすぎない」

 侃々諤々、喧々囂々…。

 ここでもイギリス同様、批判と賞賛が相半ばしていた。
 多くのアメリカ人たちにとっては、かつてイギリスがそうであったように、一過性の社会現象としてとらえようとしていたようなところがあった。

 20世紀アメリカで最も有名なプロテスタントの牧師、ビリー・グラハム(世論調査で、現職大統領、ローマ法王についで「最も尊敬される人物」として毎回上位にランクされた)は、ビートルズを見るというそれだけのために、自らが課した宗教上の規律を破った。
 つまり、日曜日にテレビを見るということである。
 そして、そのあと彼は重々しく語るのだった。

 「彼らは過ぎ去りゆく現象である。時代の不確実性、我々の混乱の兆候にほかならない」

 「アメリカで起きたことも、結局はイギリスで起きたことと同じだった。ただ、スケールが十倍だった。だから最初は、すべてが初めての出来事のような気がしたんだ」(リンゴ)

 「エド・サリバン・ショー」による“効果”は、すぐに現われた。
 ビートルズは、音楽雑誌ビルボードの4月4日号のシングル・ヒットチャートで1位から5位までを独占し、さらに31位、41位、46位、58位、65位、79位に彼らの曲が名を連ねた。
 アルバム部門でも1位、2位を独占。
 「キャント・バイ・ミー・ラブ」の予約注文は200万枚となった。

 ちょっと前には、まったく彼らを無視していたキャピトル・レコードの交換手たちさえ電話を受けるとこう対応した。

 「おはようございます。ビートルズでおなじみのキャピトル・レコードでございます」

 ワシントンの大競技場(コロシアム)で、ビートルズの初めてのコンサートが行われた。普段は野球などを行う場所である。

 その夜、ビートルズはワシントン大使館に招かれ、出席した。
 なんと大使館でも、ビートルズに対する扱いは、イギリスとまったく変わらなかった。

 手に手にワイングラスを持った中年婦人たちがビートルズを取り巻き、サインをねだったのである。
 どういうつもりか大使館員はビートルズを連れまわし、館内の来客の相手をさせたり、サインをさせようとした。
 ジョンは、これを断固拒否。
 1人の若い女性がリンゴのそばに行き、バッグから出したハサミで髪の毛を切り始めた。ジョンは部屋から逃げ出していたが、ポールとジョージはその光景を目撃することになる。

 さすがのエプスタインも、この場もおさめることはできなかったのである。
 あとで大使夫妻は陳謝したが、ビートルズの怒りはおさまらなかった。

 「大使ご夫妻はとてもいい方だったけれど、ビートルズはあのレセプションに怒っていた。あれ以来、ああいう種類の招待はすべて拒絶するようになった」(エプスタイン)

 エプスタインは、この混乱にどう対処するのだろうか…。











ハード・デイズ・ナイト…

 ブライアン・エプスタインは、ビートルズを成功に導いた男として、今や、業界ではスター、主役であった。もう、これ以上はないというほどの…。
 だが、彼はこの時期においても、未だに演劇の世界に未練を持っていたようである。
 役者をめざし、ついに「主役」になれなかった男。
 彼自身は、自分を卑下するように語ることがあったのである。

 ロックの世界では、未だに“男性”をアピールし、それに女の子が熱狂するという形がすべてであった。
 まだ、中性的、あるいは両性愛的なデビッド・ボウイは登場していない。

 エプスタインは音楽の世界の最前線にいたにも係わらず、演劇界に関心を寄せていた。
 演劇界では、ホモ・セクシャルが非常に多かったのだ。
 エプスタインは、演劇関係者のパーティなどに呼ばれると、意外なくらい頻繁に出席している。

 あるパーティで、エプスタインは主役だった。
 演劇関係者といえども、“あのビートルズのマネージャー”エプスタインは、話題の人物であったのだ。
 エプスタインは、彼が感激して見終えた芝居に登場していた俳優が、自分のそばにいるのに気がついた。
 その俳優は、今、売り出し中の若者であった。

 本人の言によれば、次のようなことになる。

 「ブライアンは、恥ずかしそうに『自分は俳優になりなかった』と言ったんです。『なれるじゃないですか。お金はいくらでもあるんだから、好きなことができるでしょう』」

 「彼は温厚そうで、静かな話し方でしたが、いくらかあがっているようでした」

 憧れがある一方で、エプスタインは、演劇関係者の中では引け目を感じていたのかもしれない。

 その俳優によれば、このパーティは客の半分が金持ちのホモ、その他の半分は、パーティに色を添えるための美青年たちだった。
 だから、あの有名なブライアン・エプスタインがいるというのは、信じられなかったという。

 「僕はなんとかして彼にいい印象を持ってもらおうとしました。しかし、本能的に迷惑をかけてはならないと思いました。ですから、パーティの間中、ずっと彼のそばにいて“怪しい女”を演じていたんです」

 その後、何度となくエプスタインはこうしたパーティに現われて、この俳優と親しくなっていく。

 「彼はゲイであることを恐れていました。僕は70年代になって自分がゲイであることを公表し、ゲイ解放運動に参加するのですが、その頃はやはり、ゲイだとは言えませんでした。でも、ゲイの世界で楽しくやっていたんです。ブライアンは、いつもビクビクしていました。当時はゲイなんて異常者だと思われていましたからね」

 親しくなった彼は、ビートルズとも会っている。

 「当時の僕は、いかにも演劇界の人間だというように、気取った喋り方をしていたと思います。ジョンはそれをとても嫌がりました。リンゴは、いつも打ち解けて話してくれましたね」

 結局、彼はエプスタインとは友人以上の付き合いにはならなかった。彼が積極的になっても、嫌がられたのだという。

 「好みのタイプではなかったのでしょう」

 だが、ある時期、エプスタインの身近で、その一部始終をじっくり観察していた彼の言葉はなかなかに鋭い。

 「彼は自分自身を理解していなかったのだと思います。金も権力も手にしたかも知れませんが、ほんとに夢みていたことは実現しなかったのです。ある意味で言えば、意思に反した道をかけのぼってしまったのでしょう」

 リバプールでは、自分がホモセクシャルであることを隠そうともしていなかったはずのエプスタインであったが、ロンドンでは…というよりビートルズを成功させたマネージャーとして世界的な有名人となった今となっては、そのことが再び彼を苦しめていたようだった。

 「当時、ゲイであるということのプレッシャーは大変なものでした。演劇界の僕でさえ、それらしい雰囲気を舞台から客席に伝えただけで、役が来なくなったと思います。エプスタインも女性的なイメージを与えるような動作、立ち振る舞いは絶対にしませんでした」

 「彼が孤独であったのは間違いありません。“そのこと”について、親しい友だちに話せなかったわけですからね。でも、“そのこと”は、みんな知っていましたよ。そしてまったく気にもしていませんでした。もっとも、気にしないということは、一方で、通り一遍の付き合い方しかしないということでもあります。ブライアンが人と打ち解けて話しているのは見たことがありません。唯一の例外がレノンだったと思います」

 エプスタインが、果たして自分自身を理解できていなかったのどうかはわからない。
 しかし、間違いなく理解できていなかったのはアメリカの広さだった。


 1964年、最初の本格的アメリカ・ツアーに際して、エプスタインがアメリカの地理をよくわからないままに認めてしまったため、ビートルズはとんでもないスケジュールをこなさなければならなかった。

 34日間に、24都市で32回の公演…あの広いアメリカで、これはどう考えても非常識だ。

 1カ月間を通してビートルズは、熱狂的な歓迎を受けた。
 だが、彼らはホテルとリムジン、そして飛行機の中にいただけである。

 彼らの人気はまさに「異常」だった。

 ビートルズが息をしていた部屋の空気の缶詰が売り出された。
 ビートルズが泊まったホテルのベッドシーツは、洗濯しないうちに切り刻まれ、3平方インチ10ドルで売られた。

 エプスタインは、ビートルズに掛かりきりになっていた。
 リバプールでは、エプスタインの指示を待っているはずのアーティストがいたのだが、完璧を求める彼は、ホテルの手配から警備態勢の指示、ビートルズが演奏する曲の選択、その他綿密なスケジュールをすべてやらずには気が済まなかった。
 彼は他のアーティストも気にしていたが、すべてに優先したのがビートルズだった。

 だから、エルビス・プレスリーのマネージャー、トム・パーカーと話をする機会を得たとき、自分がやろうとしていることの大きさをやっと理解できたのである。
 パーカー大佐は、プレスリー以外のマネージャーをしたことがなかった。
 エプスタインが驚いた表情をするのを見てパーカー大佐は言った。

 「エルビスは、私のすべての時間を必要としたんだ。もし、ほかの人間と契約したら彼は傷ついたはずだ」

 パーカー大佐から貴重な経験談を聴けたエプスタインだったが、彼は、やはりなにもかもを1人でやろうとして大きな損失をすることになる。

 映画会社からビートルズ主演の映画の話が来た。
 エプスタインは自分の判断で利益配分を考え、よせばいいのに、自分のほうから先に数字を言ってしまうのだ。
 利益を優先した映画会社は、知恵を絞り、低予算のコメディー映画仕立てにした。

 この映画によるでビートルズ側の利益は不当に少なかったが、「ハード・デイズ・ナイト」(邦題「ビートルズがやってくる ヤア!ヤア!ヤア!」)と「ヘルプ」は、映画会社に今なお利益をもたらせ続けている…。











巨大な負担…

 1964年月、エプスタインはイギリスのベストドレッサー10人の1人に選ばれた。

 「彼の衣類に対する趣味は、タレントの選択眼に対するものと同じく的を射たものである」

 …というわけである。

 エプスタインは、有名人、あるいは文化人としても認められていた。
 一般的な認知度は、まさにそうしたものであり、エプスタインは彼の持っている雰囲気そのままに、当然、一流の人物として知れ渡っていた。

 だが、彼と日常的に接する者たちは、彼の危うい面に気づかないわけにはいかなかった。
 エプスタインには、奇妙な空虚さが感じられたからである。

 公の席に登場するエプスタインは、ある種の威厳さえ漂わせ、自信に満ちた発言、行動を示していたが、その一方で、ひどく頼りなさを感じさせることがあった。
 絶好調の時の彼は、まったく申し分なく仕事をこなしていったが、ひとたび落ち込むと落ち着きなく、そわそわとした人間となった。
 そのため彼は、このころから薬物に依存した。
 興奮剤や鎮静剤を大量に使用していたと言われている。

 もともと彼は、思いつきで行動することが多かったのだが、スタッフは、彼の次の行動、あるいは感情の変化さえ予想できなくなっていた。
 エプスタインの感情の振幅は、一般的な常識からは推し量れなかった。
 すべてのことに彼流の好みが反映されていた。
 たとえば金銭的な感覚もそうだ。
 パーティには出費を惜しまなかった。
 彼はすべてのことを自分で取り仕切るのが好きだった。
 誰それの好みのタバコの銘柄はなんであるか、銀の食器がきれいに磨かれているかどうかといった、こまごまとしたことまでも自分で確認せずにはおれなかった。
 客をもてなすために途方もない額の金を使って頓着しない一方で、スタッフがジャーナリストに用意した昼食に、それだけの正当性があるかどうか、問いただした。

 ビートルズが夕食に招かれた。
 リンゴが無意識のうちに、エプスタイン自慢の高価な椅子の背にほどこされた金箔をむしり始めたことがあった。
 エプスタインは不愉快そうにそれを見ていたが、やがて、こう言った。

 「やめてくれよ、リンゴ。目茶苦茶になっちゃう」

 ジョンが、すかさず言い返す。

 「そのくだらんもんの代金を稼ぎだしたのは、彼なんだぜ」

 まさに、エプスタインに富をもたらしていたのはビートルズだった。
 彼は、ビートルズ以降も、リバプールから多くのアーティストを抱えるのだが、ビートルズがビッグになるにしたがって、マネージャーとしての仕事は難しくなっていた。結果的に成功したのは、数えるほどのグループと歌手だった。

 業界では、エプスタインはいつ“大掃除”を開始するのかと言われだす。
 誰が見ても、エプスタインひとりで、すべてを取り仕切ろうとするのは無理だと思われたからである。

 まだ、これといったヒット曲に恵まれない歌手について問われると、いずれ結果が出るだろうと楽観的な様子で答えるエプスタインだったが、オフィスに戻ると、明らかに落ち込んでいた。
 何よりも、自分が売れると見込んだ者たちが認められないことが、彼を傷つけていた。

 当時のスタッフによれば、売れるみこみがないアーティストに対しても、思い入れが強ければ強いほどしつこく売り込みたがったという。
 それが、たとえ死者を蘇らせるに等しいものだったとしても。

 あのジョージ・マーティンも、エプスタインは明らかに多くのアーティストを抱え込み過ぎていると感じていた。

 「私は本来、持って来られた話を断るのは好きじゃないんだけれど、そうせざるを得なかった。たとえ彼が美辞麗句を並べて新人アーティストを売り込んでもね。彼の連れてくるアーティストは次第に水準が下がってきた」

 ビートルズを成功させた過信があったのだろう。
 彼は、自分がいいと思ったアーティストが成功しないはずはないと、次々と抱え込んでしまったのだ。



 「ジョンは偉大な精神の持ち主で、素晴らしい人間だ。今まで私が会った中で最高の人間のひとりだ。彼の成長を眺めているのはとても興味深い」

 「ジョージのことは、常に友人だと思っているよ。気まぐれなところがあるから手に負えなくなることもあるけど」

 「リンゴのビートルズへの参加は最大の出来事の1つだった。ビートルズが希望し、僕が実行に移した」

 「ポールは人間的に一等成長したね。魅惑的な人柄だし、誠実だ。あまり変化を好まない人間なんだ。若者だけでなく、もっと広い層に向けて演奏するようになって、他の誰よりもまごついているようだ。彼は若者こそビートルズの観客だと思っているからね」

 1965年当時のエプスタインによるビートルズの各メンバーに対する言葉である。
 ジョンを絶賛する一方で、ポールに対しては、どことなく遠慮がちな感じを受けるが、エプスタインとやり合う(?)ことが一等多かったのはポールだったと言われている。

 ポール・マッカートニーは、誰にでも愛想よく、ひとなつこく語りかけるが、そのため逆に相手を警戒させるようなところがあったようだ。
 ジョンが、口の悪さでかえって好かれることになったのと比べると皮肉なことだが。
 ポールもエプスタイン同様、あれこれと気がつくタイプの人間であり、エプスタインがいろいろと口を出すことに反発していたのではなかかろうか。




 ビートルズによって会社が巨大になって来ると、共同経営の話が持ちかけられたこともあった。
 ロンドンの芸能界のドンとでもいうべきバーナード・デルフォントも、会社経営をめぐってエプスタインと何度か語り合った人物である。

 「彼には助言者が必要だと思いました。無理強いはしませんでしたが、彼がよからぬ人物にだまされてしまうのではないかと恐れたのです」

 デルフォントはエプスタインの会社の株50%を買い、引き続きエプスタインに“クリエイティブな面で”係わりを持ってほしいと説得する。
 デルフォントの申し出は、当時としては、悪くはない。
 実際、エプスタインの負担はもう限度を超えていた。

 しかし、エプスタインはビートルズにこの話を相談したあと、すぐに断った。

 「彼らは私と別れるくらいなら解散したほうがましだと言ってくれたんです。ジョンは私に、『くそくらえ』といってくれました。とても感動しました」

 エプスタインがビートルの言葉に感動したのは、紛れもない事実だろう。
 しかし、ビートルズがエプスタインの仕事の実態を正確に把握できていたかどうかは、大いに疑問である。

 かくして、エプスタインは、この後もこれまで同様の巨大な“負担”を背負い続けることになるのである…。

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