ひとりぼっちのあいつ…

 ジョンのピート・ショットンに対する信頼は、まったく揺るぎないものだった。
 功成り名遂げた者が、かつて知り合いだった男に、ちょっといいところを見せてやろうというような、そんな薄っぺらな友情の押しつけではなく、そうすることがごく当然だというように、ジョンはピートに対するのである。

 1963年も押し迫った頃、ジョンはリバプールに戻り、ピートと彼の妻をロンドンに招待する。ロンドンでビートルズのクリスマス・ショーが行われるのだ。
 さらに、ジョンはピートに出資する。
 当時、オランダ人が経営するカフェで働いていたピートに、何か事業をやることを勧める。
 ピートは私営の馬券売り場を経営することを思いついた。
 そのころ、各地にそうした施設ができ始めていたころで、資金さえあれば自分にもできるような気がしていたのである。
 ジョンは、ブライアンから小切手を受け取るようにしてくれた。
 当時の金で2,000ポンドだった。

 NEMSを訪ねると、ブライアンは留守で、ピートは彼の帰りをそのままオフィスで待っていた。

 電話のベルが鳴り、たまたまピートがその電話を受けた。
 アメリカからの電話だった。
 ピートはエプスタインの不在を伝え、相手の名前と電話番号をメモしておいた。
 ほどなくしてエプスタインがオフィスに戻る。
 ピートは用件を告げ、世間話をしたあとで、そういえば…という調子でメモを渡した。

 エプスタインはそのメモを見ると文字通り躍り上がったという。
 そこには、エド・サリバンとそのオフィスの電話番号が記されていたからだ。
 ピートはエプスタインの興奮ぶりに驚くばかり。
 彼はエド・サリバンのことは何も知らなかったのだ。

 「エド・サリバン・ショー」は、アメリカのテレビ史上、最も有名な番組といわれたバラエティーショー。1948年から1971年の23年間にわたり放映されている。
 これは単なる歌番組ではなく、あらゆるジャンルのスターが出演した。この番組に出るということは、アメリカに認められたということを意味したわけで、エプスタインが喜んだのも当然だった。
 あのプレスリーもこの番組に出たことをきっかけとして大スターになっていく。ただし、彼の場合下半身を映さないようにという注意がカメラマンに与えられたわけだが。

 ちなみに日本人でこの番組に出演したのは、坂本九、ザ・ピーナッツ、ブルー・コメッツ、雪村いずみ、女優のナンシー梅木、山口淑子等々…(結構、出ている)

 坂本九は「スキヤキ(上を向いて歩こう)」でアメリカのヒットチャートの1位にもなっているわけで、再評価されていい歌手の1人だろう。最近、平井堅などが彼の歌をうたっているのは喜ばしい限り…。

 1963年12月26日、ピート・ショットンはロンドンで初めてビートルズを見た。

 「ビートルズは、グレーの襟なしスーツを着ていた。ピエール・カルダンのね。ヘアスタイルも全員揃って、そりゃあもう、4人とも可愛らしいお人形さんみたいだった。キャバン・クラブで汚い格好で演奏していたのがまるでウソのようだった」

 「曲の合間にジョンがマイクを持って叫んだ。『やあ、ピート元気かい?』ってね。僕は手を振り、大声を出したけど、ジョンにはわからなかったようだった。ジョンは僕が来ていることを知らされていたんだよ」

 コンサートが終わり、楽屋を訪れたピートをジョンは歓迎し、そのまま彼が乗るロールス・ロイスに同乗させた。
 ピートは、押し寄せるファンの群れをかき分けるようにして、少しずつ進んでいくロールス・ロイスのなかでジョンと一緒だった。

 ファンはひっきりなしに、車の窓から手を突っ込んでジョンに触ろうとする。

 「すごい人生だな」

 「冗談じゃない。クソくらえだ。近い内に、こういうやつらの1人に捕まって、殺されてしまうよ」

 こんな調子でピートは1週間、ジョンの相手をした。
 少々うんざりし始めていたジョンにとって、ピートはそばにいてほしい友だちだったのだ。
 ジョンの作である「ヘルプ」の歌詞は、孤独に耐えかねて、だめになりそうな自分を支えてほしいと恋人に歌っている内容と受け止められている。事実、そう解釈するのが当然だろう。

 だが、ピートによれば、あれは自分のことを歌っているのだという。

  … I do appreciate you being around.

 「そばににいてくれるだけで感謝する」というあの歌詞は自分に対して言っているのだと。

 ピートは、ジョンからもらった2,000ポンドで馬券売り場の営業許可を得ようとしたが、教会の牧師に反対されて断念した。教会のそばでそんな商売をされては困るというわけである。
 結局、2,000ポンドはなんとなく消えてしまった。
 車を買ったりしたのだそうだ。
 ジョンにそのことは正直に伝えたそうだが、自分もそんなふうに2,000ポンド使いたかったと皮肉をいわれたそうだ。

 しかし、ジョンはこのあともピートに対しては援助を惜しまなかった。
 巨万の富を手にした頃、もう一度ピートに大金を出している。
 たとえそれが再び無駄な金になったとしても構わないという感じだったようた。
 巨額といっていいほどの金をピートは“援助”された。
 この結果、ピートは店舗を購入し、スーパーマーケットと、洋品店を経営する。
 (※その後、洋品店は売りに出されたが、スーパーのほうは現在でも繁盛しているそうだ)

 これほどまでにビートルズに親しかった人間は、そうはいないだろう。
 そんなピートが改めてビートルズについて語っている。

 「ジョージは本当にいいやつだった。最初に僕のスーパーに出資したいと言ったのは彼なんだ。結局、ジョンが1人で援助してくれたんだけど」

 「一等分かりにくかったのはポールだね。とても愛想がいいんだけど、なかなか本心を見せないんだ」

 「リーダーのジョンに、対抗しようとしたのはポールだけさ。ジョンもポールには一目置いていたし、彼の才能を認め、尊敬もしていたと思う。でもビートルズは自分がつくったんだということをジョンはいつも意識していたよ。ポールがそうでないような態度をとると不機嫌になったからね」

 「1966年の末頃からジョンは外に出なくなった。読書に没頭していた。キリストとか霊界とか、チベットとかフロイトとか…。要するに彼は退屈していたんだ。自分はどこにもいく場所がない男だと思っていた。だからあの曲をつくったんだ。『ノーホエア・マン』をね」

 「ノーホエア・マン」は、アルバム「RUBBER SOUL ラバー・ソウル」に収録。
 日本語のタイトルは、「ひとりぼっちのあいつ」である。





ビートルズマニア…

 さて、再び、ビートルズの足跡をたどることにしよう。

 1963年から始まったビートルズ旋風は、世界中を巻き込んだ。
 彼らの行くところ、国や人種を問わず、あらゆる若者たちが熱狂し、興奮しまくるのである。
 それは、あたかも熱病で倒れる光景のようであり、オーバーではなく、興奮が頂点に達すると女の子たちは失神した。
 これほどの規模で、多数の人間が興奮に巻き込まれたということは、かつてなかったことだった。空前絶後とはまさにこのことで、ビートルズに熱狂する者たちをマスコミは“ビートルズマニア”と呼び、一種異様な理解できない“社会現象”としてとらえたのであった。

 若者たちが熱狂するのを無視するわけにはいかなかったのだろう。
 当時は、世界的な有名人がなんらかの形でビートルズについて語っている。
 もちろん、“大人”である彼らが、“単なる社会現象”を肯定するはずがなかった。
 多くの意見は批判的なものであった。
 しかし、なんにせよ、彼らはビートルズを語った。無視するにしろ、批判するにしろ、この社会現象に対して、自分が無知であるわけにはいかなかったのである。
 後に、それがいかに的を外れた言葉として残ることになろうとも…。

 1963年10月13日、ビートルズは、イギリスで最も有名なテレビ番組に出演する。
 異変はこの番組が開始される前から始まっていた。
 劇場からの中継であったが、ファンは劇場の周りに押し寄せ、またたくまに周辺地域全体が人で溢れてしまう。
 楽屋の入口までもファンが押し寄せたため、楽屋は閉鎖されてしまった。
 人波は途切れることなく、次々とビートルズを見ようという者たちで溢れ返った。
 まさに事態は異常な状況を呈しており、無関係のはずの他局のテレビ関係者も、大群衆が溢れ返る様子を取材するのだった。
 警察当局は、予想もしないできごとに、ただただ狼狽し、現場は混乱をきわめた。

 公演が終わり、ファンたちは、ビートルズが劇場から出てくるのを待ち受ける。
 ビートルズを「脱出」させるための車は、楽屋側ではなく、わざと劇場の正面入口に待機させていた。
 考え方としては悪くなかったのだが、警察が余計なことをした。
 目立ってはまずいだろうと、車を少し離れた場所に移動させたのだ。
 これが大変な事態をもたらした。
 正面玄関から素早く車に乗り込むはずだったビートルズは、あるはずの車を探せず、そこにたたずむ。やがて人々はビートルズに気がつき、恐ろしい勢いで押し寄せてきた。
 ビートルズは人々にもみくちゃにされながら、それこそ必死の思いで、車まで走らねばならなかった。
 実際、このとき、殺されるのではないかと彼らは思ったという。

 翌日、すべての新聞が第一面で、このニュースを報じた。
 ビートルズについての記事というよりは、ヒステリックな群衆と混乱ぶりを大きな写真入りで報道したのである。


 翌週、ビートルズが、英国の芸能人にとって最大のひのき舞台である「ロイヤル・バラエティ・パフォーマンス(王室芸能大会)」に出演するということが発表された。
 あらゆるマスコミは、旅公演に出ていたビートルズを追った。
 王室に対するなんらかの皮肉めいたコメントを聞き出せるのではないかと「期待」したからである。
 「ロイヤル・バラエティ・パフォーマンス」は11月4日、開催予定だった。

 ビートルズはエプスタインの組んだスケジュールに従って、国内巡業を続けていたが、至るところで、まったく同じような大混乱が起き、そのたびにマスコミは騒ぎ、新聞は大々的にその場面を報じるのであった。

 海外公演として、彼らはスウェーデンに旅立った。
 ちょうどこの頃、イギリスでは「シー・ラブズ・ユー She Loves You 」が、100万枚の売り上げとなり、ゴールド・ディスクとなる。
 この曲は予約だけで50万枚、半年間の売上げが150万枚という当時としては驚異的な売り上げを記録した。これは、イギリスのレコード史上初のミリオン・セラーでもあった。

 この頃になると、ビートルズの人気はイギリス国内だけのものではなくなってくる。
 スウェーデン滞在中の5日間は、イギリス同様の大混乱となり、連日、マスコミは彼らをトップで扱った。
 ストックホルムでは、殺到するファンが警察の防壁をくぐり抜けステージに達し、ジョージは倒され、あやうくファンに踏みつぶされるところであった。

 ビートルズはこうした事態を把握していたのだろうか。
 彼らの取り巻きは、人気が出たというよりも、まずビートルズの安全を確保することに必死だった。
 ビートルズも、ファンに愛想を振りまいて殺される危険をおかすことは避け、なによりも、逃げることを優先して考えた。

 彼らが、自分たちの人気が途方もないものであると気づいたのは、イギリスに戻ってからだった。
 ロンドン空港は何万という空前の人波で溢れ、それぞれが歓声をあげて彼らの名を叫び続けた。
 まさに凱旋だった。

 11月4日、プリンス・オブ・ウェールズ劇場で、「ロイヤル・バラエティ・パフォーマンス」が開催される。
 客の年齢層はずっと高くなり、入場料も普通の4倍。
 これはチャリティ・ショーでもあり、ある種、社交界の様相も呈しているものであった。
 出演者は一流だけであり、名誉なことであった。
 この年の初めには、地方の劇場から締め出しをくらったことさえあったビートルズは、いつの間にか、一流の仲間入りをしていたのである。

 なにしろ、イギリス皇室がお見えになるわけであり、観客は、絶えず皇室を意識している。出演者は非常にやりにくい。
 客たちは、拍手をするにも、まず、皇室の方々の反応を確かめてからということになるからだった。

 ビートルズは、普段と変わりなく、演奏した。
 話題となったジョンのジョークも、一部に「生意気だ」という声があったが、おおむね愛すべきジョークとして受け入れられた。

 普段はまったく芸能記事を扱わない種類のお固い新聞も、彼らを取り上げるようになった。
 国会でも彼らに係わった事案が質疑された。
 彼らの演奏のたびに動員される警官たちの“危険な勤務”について、大まじめに語られたのである。


 やがて、十代の若者たちの長髪が目立ち始める。
 髪を切る、切らないで、学校や職場から追放される若者たちのことが問題にとなった。
 こうした“社会現象”を新聞が取り上げないはずがなかった。
 批判的な新聞は、「これはヒトラーがつくりだしたのと同じような集団ヒステリーだ」と論じ、擁護派は、「陽気で、ハンサムで、愛すべきビートルズを認めないのはつまらない人間だ」と反論した。

 英国教会指導者の大会、国教会議でも、彼らに対する批難と擁護する意見が飛び交った。
 心理学者たちは、ビートルズがもたらす現象を論じることで多大な収入を得る。
 もう、すべてがビートル、ビートルズ、ビートルズ。

 彼らについて語られぬ日はないという状況になっていくのである。

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