リチャード・スターキーの誕生…

 

 ビートルズのメンバーがエプスタインに出会う以前までを駆け足で、たどった。

 ピート・ベストが、ビートルズからクビになった経緯については、後になってもさまざまに言われており、「これが真相だ」と言い切れるものはない。
 それぞれに言い分があり、それぞれが真実だとするところのものを未だに抱えている。
 当事者であるピート・ベストも、もちろんそうだ。
 事実上、2年半、彼は、ジョン、ポール、ジョージと共に活動している。彼自身、そうした経緯を踏まえて、不満を持っているのは確かである。
 しかし、多くの音楽専門家およびファンたちの中で、ピート・ベストがビートルズの音楽において大きなウエイトを持っていたとみる者はいない。
 彼は、たまたまビートルズが求めていたドラマーの補充人員として、非常に都合のよい人物だったのだ。

 彼は、いつもビートルズが演奏していたカスバ・クラブのオーナーの息子であった。
 ハンブルグ巡業の仕事は、“5人編成のバンド”という要求であったが、当時、ビートルズでドラムを務めていた男は、妻の反対があり、外国へ出ることができなかった。
 滅多にないチャンスを断るわけにもいかず、なんとか使えるドラマーはいないかと考え、たまたま思い出したのがピート・ベストだったのである。
 ビートルズには十分に吟味して選択するだけの時間はなかった。
 あくまでも、ピート・ベストは、欠員補充のため急遽に招かれた男だった…。

 ビートルズは、絶えずこの新参者に対して、辛辣なジョークを浴びせる。あのスチュアート・サトクリフに対してもそうであったように。
 ジョンは常にそうしてきている。
 あの幼なじみの悪友、ピート・ショットンさえも、バンドとして不要となったときには、あっさりとクオリーメンからお払い箱になった。


 スチュアート・サトクリフの婚約者だったアストリッド・キルヒヘアも、ピート・ベストがビートルズの中では、“忘れられたような存在”だったということをハンブルグ時代に感じていた。
 そのことを知らなかったのは、誰あろうピート・ベスト本人だけだったのだ。

 「下手だったからというふうに考えられるのは、我慢できません。上手い、下手ってなんですか。スタイルの違いだけの問題でしょう。僕はずっと彼らに合っていたけど、いつのまにか合わなくなっていたという、そういうことかも知れません」

 だが、新参者にかなり辛辣な言葉を浴びせていたポールは、改めてそのへんの事情を語っている。

 「要するにピート・ベストは下手だった。リンゴのほうがずっと上手かった。それが彼を外した理由だ」

 なんともあっさりとしたものだが、最も“いじめられていた”と言われていたスチュアート・サトクリフについても同じような理由から、そうしたのだと語っている。

 「スチュを好きじゃなかったのは事実だ。でも人間として嫌いだったわけじゃない。ベースが弾けなかった。それだけさ。グループの将来のためを考えて、彼には反対していたんだ。客に背を向けていろと言ったのは僕だ。僕は彼にベースを弾いてほしくなかった」

 ポールの音楽に対する潔癖さは、ビートルズ解散後に彼が結成したウイングズでも発揮されている。
 ウイングズは、当時のポールの妻もメンバーの一員だった。
 ウイングズは、あらゆる音楽関係者および評論家から、「なぜ素人を入れるのだ」と酷評されながらスタートしたバンドだった。
 もっと言えば、“物笑いのタネ”でもあったのである。
 しかし、そんな声をよそに、ポールは、少しずつこのグループを磨き上げていく。
 ついには、「バンド・オン・ザ・ラン」、「ヴィーナス・アンド・マース」といったヒット曲を出して、さすがポールといわせるのである。

 しかし、ウイングズ解散後、バンドのメンバーや関係者たちは、ポールがいかにワンマンで、自分たちにつらく当たったかを語ったのだった。
 おそらく、そこに、いささかの誇張はあるにしても、まったく的外れなことばかりをあげつらったというわけでもないだろう。
 ポールの音楽に対する態度は、ビートルズ時代とおそらく変わらないはずである。

 つまり、少なくともポールの要求水準に、ピート・ベストは達していなかった。これは事実だったのだろう。

 ジョンは後年、こう語っている。

 「ピートをクビにしたとき、僕等は臆病だった。ブライアンにそれをやらせたんだからね。でも、面と向かってピートに言うことは、もっとひどい結果になったと思う。きっと最後は殴り合いになっただろう」

 いずれにせよ、誰か1人の意見で決まったことではなかった。
 ジョン、ポール、ジョージの3人は、ピート・ベストを初めから仲間だと認めていなかったようだ。あくまでも一時しのぎの補充人員だった。
 だから本格的なプロデビューが決まったとき、彼の役目は終わったのだ。




 1936年、リバプール市内のパン焼き工場で働いてたリチャード・スターキーは、同じ職場のエルシー・グリーブと結婚した。
 2人は、リバプール市内で最も柄が悪いとされていたディングルへ引っ越す。
 そこはジョンやポール、ジョージが育った郊外より港よりで、かなり陰鬱な印象を与える地区でもあった。
 当時、ディングル出身と聞くと、リバプールの人間は、身構えるような感じになったという。まるで、凶悪犯が住んでいる地区の出身者だといわんばかりに。
 もちろん、そんな人だけが住んでいるわけではなかった。
 ただ、いかにも貧乏長屋といったたたずまいの家々が建ち並んでいたのは事実だ。

 1940年7月7日、予定より1週間遅れで、1人の男の子が誕生した。
 リバプールに空襲が始まった頃のことである。
 父親のリチャード28歳、母親のエルシーは26歳であり、2人にとって初めての子どもだった。
 この子は父親と同じリチャードという名前がつけられる。これは労働者階級としては当然のことだった。
 愛称までもが父と同じくリチーと呼ばれたこの子どもは、3歳のときに両親の離婚を体験する。といっても、もちろんその当時の記憶はない。

 あのジョン・レノンが、幼いときに体験したこととよく似た環境だが、リチーの場合、特にドラマティックなことはなく、両親は話し合いによる正式な離婚だった。
 そして、母親のエルシーがリチーの親権者となった。

 母親の記憶によれば、リチーは両親の離婚について悩んだりする様子は見られなかったという。

 「でも、時々、2人じゃ寂しいというようなことを言いました。雨が降っているときなんか窓から外を見ながら、『弟か妹がいればいいな。雨が降ると話し相手がいないよ』なんて言っていました」

 リチャード・スターキー。
 後にドラマーとしてビートルズの一員となるリンゴ・スターの幼年時代である。








ジョン・レノンからの電話…

 リチーの母親、エルシーは、離婚後、別れた夫から養育費をもらっていたが、それだけでは到底生活できなかった。
 結婚前にいろいろな職歴のあったこの女性は、バーに勤めることにする。条件的にもよかった。
 午前から昼までという勤務時間を考えると、我々がイメージするいわゆるバーとは、少々違うようだ。

 6歳のときに、リチーは盲腸炎から腹膜炎を併発する。
 昏睡状態に陥った彼は、10週間ほども意識が戻らなかった。
 この結果、なんと1年以上も病院にいることになった。
 退院して7歳で小学校に通うことになるが、子どもの頃、1年間病院にいたということは、かなりのハンディである。
 読み書きその他がまったくだめだった。
 エルシーの親友の娘、マリー・マグワイアがリチーに読み書きを教えてくれることになる。
 マリーは、リチーより4歳年上の女の子だったが、大いにお姉さんぶりを発揮して面倒をみてくれたようだ。

 「退院してきたリチーに読み書きを教えました。私はリチーがずっと好きでした。お母さんと同じように陽気で、いつも元気でした。可愛らしい大きな青い瞳でしょ。鼻が大きいとは思いませんでした。有名になってから鼻が大きいと言われていたので、そう言えば大きかったなと思ったんですけど」

 小学校時代には、特別なことはなにもない。
 中学に入るが、成績ははかばかしくなかった。勉強に興味が持てず、ずる休みをしたりする子どもだった。
 やがて、母親のエルシーは、リバプール市役所で室内装飾の仕事をしていたハリー・グレイブズと付き合い始める。
 リチーとハリーは最初からウマが合って、一緒に映画を見に出かけたりしている。
 エルシーが、求婚されているとリチーに告げると、すぐに結婚に賛成した。
 リチー13歳の年、つまり1953年の4月17日に2人は結婚した。

 「ハリーは、よくアメリカのマンガ本を持ってきてくれたりして、いい人だと思った。ハリーとママがケンカすると僕はいつもハリーの味方をした。ママはちょっと威張っていてハリーが気の毒だと思っていたんだ。僕はハリーからやさしさを学んだ。暴力なんて無意味なものなのだと教えてくれたんだ」

 リチーとハリーはケンカすることもなく、すべては順調に見えた。
 だが、リチーは再び大病を経験する。
 風邪をこじらせて肺炎となり、またも長い入院生活をすることになる。なんとリチーは、それから2年間も病院生活を送ることになるのだ。
 13歳から15歳までの2年間を病院で過ごすというのが、どういうことなのか、考えてみるだけでも大変なことだ。

 「気を紛らすためになんでもしたよ。いろいろ与えられたしね。編み物までした」

 要するに、リチーは中学校時代のほとんどを病院で過ごしたわけである。
 就職するために必要な書類を手に入れるために中学にいっても、誰もリチーを覚えていなかった。
 そしてまた就職するにしても、リチーには体力がなかった。難しいことをするだけの教育も受けていない。
 鉄道のメッセンジャーボーイの仕事に就いたが、6週間で辞めている。辞めたというよりも健康診断の結果によるものであった。
 その次には船のバーテンをクビになり、最終的には組立工の見習いとして働くことになった。

 リチーに読み書きを教えたマリー・マグワイアは当時を振り返り語っている。

 「両親は別れるし、二度の大病ですからね。私はどうかリチーが幸せになりますようにと祈りました。成功しなくてもいい。ただ、幸せになれればいいと」

 リチーは自分の面倒をみてくれたナースの名前なら今でも言えるが、学校の先生の名はまったく覚えていない。
 だが、彼は、そのことについて特別な感想はない。
 幸福だとか不幸だとかを語ろうにも、彼には、ほかに選びようがなかったのである。

 リチーが見習工として働き始めたその頃から、素人のバンドブームが始まった。
 そこで彼はドラムを叩き始める。
 最初に中古のドラムセットを与えたのは義父のハリーだった。
 リチーがドラムを始めるきっかけをつくったのが義父だったというのは、非常に面白いところだ。
 やがて、彼は新品のドラムセットを買い、バンド活動を熱心にやるようになる。
 母のエルシーはいい顔をしなかったようだが、義父のハリーはこれを大いに喜んだ。何にせよ、夢中になる対象を見つけたことは素晴らしいことだと思ったのである。

 やがてのことに、リチーはロリー・ストームのグループに加わった。
 素人バンドとして20歳のときに、彼は1つの決断を迫られる。ロリー・ストームが13週間もの仕事を決めたからである。
 見習い期間はあと1年残っていた。ここでやめるのはもったいないというのが周囲の声だった。

 「まったくそのとおりだと思った。でも、会社の収入は週6ポンド、夜、アルバイトとしてバンド活動で得るのは週8ポンドだった。だが、今度の仕事は週20ポンドが約束されていた」

 リバプールで、ロリー・ストームのバンドは最も有名なグループだったが、この13週間の仕事は特別なものだった。もしこれに成功すれば、さらなる活動の展望が開けたのだ。

 ロリー・ストームの本名はアラン・ロールドウェル。
 いい仕事を得たことだし、これは有名になるチャンスだというので芸名を考えたのである。最初はジェット・ストーム。それが、ロリー・ストームになったのだった。

 リチャード・スターキーも芸名を考えた。
 それまでにも彼はリングズと呼ばれていたことがあった。
 16歳で母に買ってもらった指輪をしていた彼は、祖父が亡くなったとき金の指輪を貰った。この当時は、4つの指輪をしていたのである。
 スターキーはスターと縮められて呼ばれていたので、名前のほうも一音節に改められた。
 リチャード・スターキーは、この13週間のうちに、リンゴ・スターとなったのである。
 この仕事を見事に成功させたロリー・ストームのグループは、リバプールでもっとも売れっ子のバンドとなり、最初に持ちかけられたハンブルグでの仕事を断っている。仕事が既に決まっていたのである。
 だが、やはり彼らにしてもハンブルグ行きは魅力だったらしく、二度目の呼びかけには応じている。
 このときに、リンゴ・スターはビートルズと出会い、同じクラブで働いている。
 リンゴはビートルズに興味を示し、彼らの演奏に耳を傾け、わざわざリクエストまでしていたのはすでに述べたとおり。
 ちなみに、リバプールでもリンゴはビートルズを見かけたことがあった。
 みんなで、スチュアート・サトクリフにベース・ギターを教えているところだったという。

 ハンブルグでの待遇は素晴らしかった。独立した部屋と車を与えられ、毎週30ポンドの収入が得られた。彼はこのままドイツにとどまろうかと考えたというが、この待遇ならばそれも無理からぬところだろう。
 しかし、結局、彼はリバプールに戻ろうと決心する。ロリー・ストームにいれば、またあの13週間の仕事があるはずなのだ。

 そんなとき、ジョン・レノンから誘いの電話がかかる。
 ビートルズに加われば、本格的なプロとしてのデビューが約束されるのだ。
 ジョンは念のためにというように付け加えるのだった。

 「ビートルズに入るなら、ヘアスタイルを変えなきゃならないぜ」

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