再びドイツ…

 ジョージ・ハリソンの母親ルイーズは、キャバン・クラブに何度も出かけ、息子たちの演奏を熱心に聴いていた。
 ジョンの母代わりであるミミが、まったく聞く耳を持たなかったのとは好対照である。
 ジョンがバンド活動を続けているということ知らされて、憤然としたミミが、このキャバン・クラブにやってきたとき、彼女は既に熱心な客としてその場にいたのだった。
 物事を悲観的にとらえず、陽気で社交的なこの女性は、自分だけではなく、親戚、友人、知人までを引き連れて、キャバン・クラブにやってきていたのである。

 「ミミが出て行くのを見かけましたから、『素敵じゃないの』と私はいいました。あの人は振り向いて、『そう思ってくださる方がいるのは嬉しいわ』といいましたよ」

 このとき、ミミはジョンがいったいどういうことになっているのか、さっぱり分かっていなかったが、ルイーズはすでにビートルズの“ファン”の1人だった。

 しかし、初めてキャバン・クラブにきたときには、さすがの彼女もたじろいだようだ。
 ジョージたちは、顔からポタポタと汗をしたたらせながら演奏を続けていた。

 「そこはまるでゴミ箱でした。むっと息が詰まりそうでした。ジョンは盛んに叫んでいましたわ。『うるさい、黙れ!』なんてね。ほかの人も。でも、ジョージだけなんにも言わず真面目な顔でした」

 不思議に思ったルイーズが、ジョージに訊いたところ、自分はリードギターだから、間違うとすぐに分かる。絶対にミスできないんだと答えたという。

 「あの子は昔から音楽とお金のことはとても真剣でした」

 ジョージがお金にこだわるというのは、若かりし頃のビートルズを紹介するときに、しばしば語られていたエピソードである。やがて東洋への憧れから、精神的なものに傾斜していくジョージなのであるが…。

 ミミはルイーズに会うたびにこう言っていたという。

 「あなたがおだてさえしななければ、我が家もお宅も、みんな平和に暮らしていたはずなのに」


 最初の熱狂が押し寄せてから、キャバン・クラブをメインとしてビートルズは確実にリバプールの若者たちに受け入れられていた。

 そして、再び彼らはハンブルグにやってきた。
 前回、オーディションを受けたクラブでの契約が残っていたのだ。

 アストリッドがスチュアートを出迎える。
 ビートルズの写真を本格的に撮った初めての女性である。
 彼女がスチュアートに寄せる想いは、やがてビートルズまでも変えることになる。
 アストリッドは、フィアンセのスチュアートの髪型を変えてしまうのだ。
 スチュアートは、ジョンに憧れてバンドに入ったくらいなのだから、ジョンのようにテディ・ボーイ風に油で固め、盛り上げるようなヘア・スタイルだった。だからかなり抵抗を示したようだが、ついには彼女の意見に従う。

 その夜、ステージにあらわれたスチュアートの髪型を見て、他の4人は、腹を抱えて笑ったという。
 スチュアートは髪をきれいにとかして、それをそのまま垂らしたヘアスタイルだった。
 あまりに笑われたせいか、スチュアートは、もとのヘアスタイルに戻した。だが、翌日はまた、同じヘアスタイルで現われる。
 再び彼は嘲笑されるのだが、翌日、ジョージが同じヘアスタイルで現われた。
 ジョージは、アストリッドに憧れており、アストリッドからは仲のよい弟のような扱いをされていたから、彼女に感化されてしまったのだろう。
 やがてポールも、この髪型をするようになった。
 さすがにジョンは抵抗した。彼がそのヘアスタイルで現われるのはかなりたってからのことである。

 ちなみに、日本でビートルズのハンブルグ時代のようようなスタイル…革ジャン、リーゼントといったスタイルで、突然、登場したグループがあった。
 キャロルだ。
 意外なことに、あのスタイルに最後まで抵抗をしたのは矢沢永吉だと言われている。
 言い出しっぺはジョニー大倉であり、我等が永ちゃんは、このときのジョンのように最後まで抵抗した。
 彼はビートルズに触発されて音楽を始めた男であり、キャロル以前は、ビートルズ風の長髪だった。つまりおかっぱ風の頭だったのである。
 キャロルのなかでもとりわけ目立って不良っぽい雰囲気を出していた矢沢永吉が、ロンゲだったらと考えてみると、それはそれで面白いが、やはり、キャロルはリーゼントでなければいけないだろう。
 彼らの男っぽい、あるいは不良っぽい魅力は、ひとえにジョニー大倉の功績だったわけである。


 スチュアート、ジョージ、ポール、そしてジョン。
 ビートルズの代名詞ともなったヘアスタイル、“マッシュルーム・カット”はこうして誕生した。

 1人、ピート・ベストはこの騒ぎになんの関心も示さなかった。
 このあたり、グループで彼だけは、感覚的に違っていたと言えそうである。

 アストリッドは、デビュー当時に話題になった襟なし服もスチュに作った。
 これまた他のメンバーの笑いのタネになるのだが、結局は、ヘアスタイル同様の結果となる。


 アストリッドは、当時のビートルズに最も影響を与えた人物といえるだろう。ビートルズは、滅多なことで自分たちを変えようとはしなかった。
 アストリッドという1人の女性が、当時のビートルズにとって、どのような存在であったかが窺われる。

 彼女はスチュアートに夢中だったのだが、それとは違った意味で、強烈な個性のジョンにも興味を示していたようだ。

 「ジョンは時々、万引きをしていました。私は『すごいわね』と言ったものです。誰だって、とんでもないことをしたくなるときがあるでしょ。実際にはしませんけどね。ジョンは急に両手をこすり合わせながら、『ちょっと万引きでもしてくる』かなんて言うんです。ただスリルを味わっているの。だから全然驚かなくなったわ。ジョンはなんでもそう。アイディアがひらめくと、すぐに実行して、そのあとずっと何もしないんです。じっくり考えてから行動に移すポールとはまったく違うの」

 ハンブルグで特筆すべき事柄は、彼らが初めてレコーディングしたということだ。
 人気歌手トニー・シェリダンの伴奏を依頼されたのである。

 「楽な仕事だと思った。ドイツにはろくなレコードがなかったからね。僕らがやればいいものができると思っていた。5曲ほど僕等の曲をやってみせたのだけど、彼等はお気に召さなかった。『マイ・ボニー』みたいな曲がいいんだそうだ」(ジョン)

 かくして、レコーディングは行われた。
 このとき、後にエプスタインがビートルズのレコードを探すのに苦労する原因となった「ザ・ビート・ボーイズ」というグループ名になっている。
 これは、ビートルズという語感が、ドイツでは、ちょっとはばかれたためだった。
 スラングとして、男性のプライベートな部分を示す言葉によく似ているのだ。

 ところで、このレコーディングにスチュアートは参加していない。
 彼は、アストリッドと結婚し、ハンブルグ美術学校で学び直すことを決心するのである…。







ある季節の終わり…

 スチュこと、スチュアート・サトクリフは、ビートルズにいたとき、彼らと親しい者たちからすると、かなりいじめられていたように見えたという。
 特に、ポールとの「軋轢」(?)は、かなりなもので、ポールのスチュアートに対する「デッド・パン」攻撃は、情け容赦がなかった。
 あまりのことに、ステージ上で癇癪を起こしたスチュアートの姿は、何度も目撃されている。
 これは、それまで“蜜月関係”が続いてたジョンとの中に、急に割って入った彼に対するポールの嫉妬だという説もある。

 スチュアートは、ジョージがしたように同じような皮肉っぽい言葉を返したり、あるいは無視したりするようなことができなかった。
 ピート・ベストもジョンやポールのからかいの対象だったのだが、彼は、そのことをまったく記憶していない。要するに、まともに取り合わなかったわけである。からかったほうは十分それを意識していたのだが。
 つまり、彼らは新参の2人に対して、自分たちの仲間足り得るかを常に確認しようとしていたようなところがあったのである。

 ピート・ベストは、まったく取り合わなかったわけだが、これは要するに“同じ土俵に上がらない”ということでもある。
 この対応が、どのようなことになるのかは、あとになってわかることだが、そのことに、彼は気づかなかったようだ。

 一方、スチュアートは、からかわれることを非常に気にしていた。
 その意味では、彼のほうが見込みがあったはずである。


 ジョンへの憧れから仲間に加わったのだが、結局、彼はジョンのようにはなれない。
 スチュアート・サトクリフは、やはりスチュアート・サトクリフでしかないと気づいたとき、彼はビートルズから離れるのだ。

 ジョンのようにステージ上で跳ね回ることもなく、ただ1人サングラスをして、まったく愛想を振りまくことなく、むしろ不機嫌ともとれる表情をしていた彼は、意外なことに、かなり人気があったという。他のメンバーが動き回っている中で、1人静かな彼は、逆に目立っていたわけなのだろう。

 他のメンバーがリバプールに戻ったとき、彼は1人ハンブルグに残った。
 当時、ハンブルグ美術学校の客員教授でもあった彫刻家、エドアルド・パオロッツィは当時のスチュアートをこんなふうに評している。

 「非常に精力的で才能があった。可能性があふれんほどであり、鋭い感受性と絶対に成功するんだという自信に満ち満ちていた」

 グループから離れたあとも、ジョンとスチュアートは手紙のやりとりをしている。
 最初は、例によってジョークやデタラメな与太話を書き送っていたジョンだが、次第に書き送る手紙の内容は、深刻なものになって行った。
 どんなときでも、弱み、あるいは悲しみの表情をみせないジョンであったが、現状に対する不満なども書き送るようになるのだ。
 ジョンは、リバプールで一応の成功を収めたものの、昨日と同じ今日をおくる毎日に、うんざりしてきたところだったのである。

 「すべてくだらない仕事だ。今に何かが変わると思っているけれど、いつになったら変わるんだろう…」

 忙しい毎日を送っている彼にしてみれば、わざわざ手紙を書くということ自体大変なことである。傍目には、いじめているとしか思えなかったというスチュアートに対するジョンの信頼が、どれほどのものであったかが窺われる事実である。

 思い出す
 あのころ 僕が好きな人たちは
 僕のことを憎んでいた。
 なぜならば、
 僕が憎んだから
 それがなんだろう
 それがどうだというのだ。

 (略)

 思い出す
 あの頃 すべてがかなしい思い出ばかり
 かなしみが深すぎて
 もう僕には分からない
 かなしみが深すぎて
 泣いたあとには 愚かな自分が見えるだけ
 だから僕は歩き続ける。
 ヘイ・ノニ・ノニ・ノウと叫びながら。

 特に書くべきことがなければ、そんなふうな詩をスチュアートに送っている。

 これに応えるように、スチュアートも内面を赤裸々に明かす手紙を送ってくるのだが、彼のほうは、いささかその深刻さの度合いが大きかった。
 ある日、スチュアートは、美術学校内で昏倒し、部屋に運ばれる。
 アストリッドは、過労からくるものだろうと考えていた。

 「その前から、頭が痛いと言っていましたけど、勉強のし過ぎだろうと、私たちは軽く考えていました」(アストリッド)

 その後もスチュアートは学校に通うが、1962年3月、再び学内で倒れる。
 アストリッドの家に運ばれた彼は、そこで暮らし始める。
 彼の何かをなしとげたいという情熱は消えることはなかった。
 1日中デッサンや油絵を描き、行き詰まると部屋の中をグルグルと歩き回った。
 医者に診てもらったものの、一向に改善はみられなかった。
 彼は絶え間ない頭痛に襲われ、その苛立ちをアストリッドや彼女の母にぶつけた。
 だが、2人にはどうすることもできない…。

 1962年4月。
 スチュアート・サトクリフは短いが激しい一生を終えた。
 脳出血による死だった。

 死後、彼が残した作品は、リバプールやロンドン等の展覧会に出品された。

 「僕はいつもスチュを尊敬していた。いつも真実をかたってくれる人間として、彼を信頼していた。彼は、何がいいか、何が悪いかを遠慮せずに言ってくれた。僕は心から彼を信じていたんだ」(ジョン・レノン)

 スチュアート・サトクリフの死は、ジョンにとって、そしてビートルズにとって、1つの季節の終わりを告げるものであった。




 

SEO [PR] おまとめローン 冷え性対策 坂本龍馬 動画掲示板 レンタルサーバー SEO