クラウスが、アストリッドに自分が見てきたことを話したのは、ビートルズを初めて見た翌日だった。
 クラウスは、興奮しつつ、その夜の体験を語ったのだが、アストリッドは興味を示さなかった。なによりも、クラウスが入ったという店のある地区は、好ましい場所とは思えず、露骨に嫌な顔をしたのだった。
 それでも、クラウスにとっては、昨日のことはすごい出来事だった。
 彼は、なんとか彼らに、近づきたいと考えた。
 そこで、彼は自分がデザインしたレコードジャケットを持参する。
 それに彼らが興味を持つのではないかと考えたわけである。

 長い間、待ち続け、やっとビートルズの休憩時間になると、クラウスはリーダーと思われるジョンに近づいた。

 「ジャケットを渡されたのは覚えている。でも、なんだかわけがわからなかった」(ジョン)

 クラウスは一生懸命に英語で語りかけた。
 しかし、ジョンは、こういうのはスチュアートに見せたほうがいいというようなことを言った。それで、スチュアートに近づこうとしたが、何らかのじゃまが入り、機会を逸してしまう。
 クラウスは、場違いな場所に来て、一体何をしているのだろうという自己嫌悪に陥りながら席に戻るのだが、その夜も最後まで聴いてしまうのだった。

 再び、アストリッドにビートルズのよさを語るクラウス。
 今度こそ、一緒に行って見てくれと熱心に口説かれ、アストリッドは重い腰を上げる。クラウスとしては、自分の感動が本物であることを仲間によって確認したかったのだろう。結局、もう1人の友人を誘い、彼らはその夜、3人で出かけるのである。

 渋々出かけたアストリッド。
 だが、彼女もまたビートルズに魅せられてしまう。


 「かなり怖かったわ。鼻のつぶれたテディ・ボーイとか、正真正銘の乱暴者がいたんです。でも、あの5人を見たとき、すべてを忘れました。自分でもわけがわかりませんでした」

 「写真や映画で観るテディ・ボーイには興味がありました。服装なんかね。でも、髪を盛り上げて、細いズボンをはいた人たちが、目の前にいるわけでしょ。私はポカンと口をあけたまま、身動きもとれずに眺めていました」

 クラウスとアストリッドが、彼らを激賞した結果、その友人たちが少しずつそのクラブに訪れるようになる。
 そしてついには、彼らは、ある種の勢力といえるほどの集団となり、店の雰囲気まで変わってくるのである。
 ビートルズも休憩時間には、彼らと話すようになっていた。
 彼らはドイツ語を話せなかったが、ドイツ人の中にはいくらかでも英語のできるものがいたのである。

 「僕等には急に美術家タイプの友だちが増えた」(ジョージ)

 「実存主義者みたいな連中だった。いい奴らだったよ」(ポール)

 「連中は僕が話しかける気になった最初のドイツ人だった」(ジョン)

 もっともジョンの言葉はクラウスにはよく分からなかったらしい。
 ジョージの言葉はよくわかったそうだ。ジョージにはゆっくりと話してやるだけのやさしさがあったのだ。

 しばらくして、アストリッドはビートルズに写真を撮らせて欲しいと頼む。

 「彼らは、まんざらでもないような顔をしたわ。ジョンはなにか妙なことを言ってましたけど、彼はいつもわざとひどいことを口走るんです。私に向かって直接は言わないですけどね。本当はそんな人ではないと言う気がしていました」

 アストリッドのお目当ては、スチュアート・サトクリフだった。
 一目惚れだったという。
 クラウスとは単なる男友だちという認識だったのだろう。
 ジョンの話でも、ジェームス・ディーンに雰囲気の似たところのあるスチュアートは、新しく訪れるようになった“実存主義者たち”に人気があったということである。
 最初の撮影が終わったあと、アストリッドは彼らを自宅に誘った。
 この時、ピート・ベストだけはドラムの補修ということで、別行動だった。
 他の4人は、ドイツ人の家庭に入ったわけである。

 アストリッドはその後、何度も彼らの写真を撮る。
 彼らと会うときには、いつもカメラを持って行くようになった。
 アストリッドは光と影を巧みに使った。彼らの顔半分が影になるような写真をたくさん撮っている。
 これはハーフ・シャドウというもので、初期のビートルズでは、しばしばこの写真が使われている。

 スチュアートに恋したアストリッドは、クラウスに英語を習い、独英辞典持参で話し合うようになる。そして1960年11月、出会って2カ月後には婚約するのである。

 この当時、アストリッドが感じていたビートルズの印象は、なかなか興味深いものがあるので紹介しよう。


 「スチュは知的な人でした。それはジョンも認めていました」

 「その次に、ジョンとジョージが好きでした。それからピート・ベストね。彼はとても内気なんです。本当は面白い人なのにね。あまり付き合いはありませんでした。その頃からピートはみんなに忘れられがちだったわ。もう一人前だったということね」

 「ポールは近寄りにくい人でした。愛想はいいんですけどね。一番人気があってステージで何か喋ったりするのもいつも彼でした。ファンは彼がリーダーだと思っていたみたいです。でも、リーダーはジョンでした。なんといっても彼は強かったんです。肉体的な意味ではなくて、個性がね」

 「ジョージは私のような人間には出会ったことがなかったらしく、そのことを素直に言ってました。彼は17歳だったんですものね。私は車を持っていて、カメラマンで、革ジャンパーなんか着ている変な女の子でしたからね」


 ビートルズは、テディ・ボーイ風の男たちも含めたロックファンと、新たにファンとなった“実存主義者”たちという2種類の支持を得たのである。
 当初の契約はすでに何度も延長されており、6週間のはずだったハンブルグでの生活も、すでに5カ月となっていた。
 彼らは、さらなる可能性を探り、もっと大きなステージに立つべくオーディションを受け、これに見事合格し、契約を取り付ける。
 ところがである。
 ジョージが国外退去を命じられた。
 年齢が問題となったのである。
 彼が17歳であることをアストリッドが知っていたように、ジョージは特に年齢について気にしていなかったようだ。しかし、18歳以下はクラブへの出入りは禁じられていたのだ。誰かが、ジョージの年齢について話したのだろう。
 ほかの4人は残り、新たな仕事場であるクラブで演奏するのだが、一晩ステージをこなしただけで、結局、ハンブルグをあとにしなければならなくなる。

 ジョンとスチュアートは、それまで利用していた映画館から、既に新たなクラブに荷物を移し終えていたが、ピートとポールはまだだった。
 荷物を整理するために、暗い中で、2人はマッチを使うのだが、それが原因でぼやを出してしまう。

 「大した火事じゃなかったけど、僕等2人は警察に引っ張られ、国外退去を命じられた」(ピート)

 残るは、ジョンとスチュアートだが、ジョンは労働許可証を取り上げられ、やがてスチュアートも国外退去を命じられてしまう。

 ジョージから始まったビートルズの国外退去命令の本当の原因がなんであったのかは、分かっていない。そこに何らかの力が働いていたのかどうか…。

 いずれにせよ、さらなる成功をめざしていた彼らは、あっと言う間に、失意のどん底に落ち込むのである…。








 ハンブルグから帰ったビートルズは、それぞれにうちひしがれていた。
 しばらくの間、それぞれ連絡さえとらなかった。
 17歳だったジョージ・ハリソンは、自分が戻ったあと、すぐに仲間が戻っていたことさえ知らなかった。出かける前に大きなことを言って出ただけに、ひたすら恥ずかしかったという。
 それは、他のメンバーも同じだった。
 ジョンでさえ、1週間は外出しなかった。

 ポールも、帰宅すると、それみたことかということになった。
 父親はブラブラしている息子に働け働けという。

 「怠け者には悪魔がとりつく」

 というわけである。
 もともとポールは、その気にさえなれば、なんでもそこそこにやれる男だったから、毎日毎日、父親にそんな言葉を言われ続けているうちに、働いてみようということになった。
 しかし、職業紹介所が斡旋してくれた仕事は、単純労働といっていいものであり、あまり熱心には取り組めなかった。
 それでも、他のメンバーが、結局はすぐにバンドを活動を再開したのに、彼だけはすぐにとはいかなかった。
 父親のジムに言わせると、

 「私の顔を立てるために働いたんだろう」

 ということになる。
 ポールは2カ月くらいは、労働者として働いている。

 「僕はすぐに戻る決心がつかなかった。だから仕事を続けて、昼休みなんかに演奏に加わったりした」

 意気消沈していた彼らだが、カスバ・クラブはビートルズを待ち望んでいた。
 カスバ・クラブでは、ピート・ベストの友人であったニール・アスピノールがベスト夫人に部屋を借りて住んでいた。彼はあのインスティチュートを優秀な成績で卒業し、計理士見習いとして勉強に励んでいた。
 そのまま、出世コースを歩き続けるはずであったが、いつのまにやら、カスバ・クラブに係わるようになる。
 彼は、ハンブルグから届いたピートの手紙で、ビートルズが当地で凄い人気であることを知らされていた。だから、彼らの帰国は“凱旋”ということになった。

 「ビートルズが帰ると聞いて、僕はポスターを至るところに貼った。メンバーにピートが加わってからは、まだ一度も聴いたことがなかったからすごく楽しみにしていた」

 傷心の日々を送っていたビートルズも、結局は、演奏活動を再開する。
 彼らの最初の仕事は、カスバ・クラブだった。

 「凄かった。猛烈にうまくなっていた」

 ニールの感想である。
 異国の地ハンブルグで、連日連夜、何時間も連続して演奏する日々は、ビートルズをグレードアップさせていたのだ。
 やがて、ロリー・ストームもハンブルグから帰ってきて、カスバ・クラブは大いに賑わうことになる。

 ここでディスク・ジョッキーに成り立てのボブ・ウーラーが登場する。
 やがてキャバーン・クラブ専属となり、何百回となくビートルズを紹介することになる男である。
 彼は、ハンブルグから戻ったビートルズを盛り立てた重要人物ということができる。

 「私は彼らが相当にまいっているのを知っていた。ハンブルグでの終わり方を本当に悔しがっていた」

 ボブはビートルズのために一肌脱ぐ。
 彼は、苦労の末に、リザーランド・ホールに彼らを出演させるのである。
 そこは、ダンスホールとして利用されるほどの大きなホールであり、ビートルズはまだそれほど大きな場所での演奏は経験していなかった。

 聴衆は、ハンブルグ仕込みのド派手な演奏を繰り広げる若者たちに熱狂する。
 文字通り狂ったようになった。
 用意されていたポスターには「ハンブルグから来たビートルズ」という文字があったためか、聴衆の多くはビートルズをドイツ人だと思ったようだった。
 第一、服装が他のグループとはまったく違った。
 革のズボンに、膝まであるような金と銀で飾られたブーツ。そして何よりも、彼らの演奏する音楽は、他のグループとは、まったく違っていたのである。

 「僕等は自分たちが有名なんだとわかった。そして初めて自分たちは優秀なんだというふうに考え始めた。それまでは、まあまあいけてるとは思っていたが、図抜けているとまでは思っていなかった」(ジョン)

 意気消沈してハンブルグから帰った彼らだが、半年近く留守にしている間、イギリス国内ではクリフ・リチャードとともに彼のバックバンドをしていたシャドウズが大成功を収めていた。
 きちんとしたスーツスタイルで端正なたたずまいの彼らは、瞬く間に全国にその亜流を生み出していた。
 そんな流行になじんでいた若者たちの前に現われたビートルズは、これとはなにからなにまで正反対だった。
 服装もそうだし、演奏スタイル、音量までもが違った。
 これほどの音量で演奏するバンドはいなかった。
 聴衆は耳をふさぎ、その場を立ち去るか、あるいはそこにとどまり、そのサウンドに文字通り“共鳴”するしかなかったのである。

 「僕等はハンブルグで本当に成長したんだ。12時間ぶっ続けでドイツ人を踊らせるためには、必死になって全力を尽くさなければならなかった。思いつく限りのことはなんでもやった。お手本なんて何もないんだからね。僕等は僕等自身がいいと信じる演奏をやった」

 「でも僕等はわからなかった。ほかの連中がクリフ・リチャードのまねなんかしているときに、僕等が自分たちの個性に磨きをかけていたということは、リバプールで演奏するまで、まったく気づかなかった」(ジョン)

 リザーランド・ホールでの成功により、さらに大きなホールでの公演が行われた。
 そして、そのいずれもが、ことごとく大成功…。
 いや、それ以上のことになっていた。
 熱狂どころではないのだ。聴衆は興奮し、しばしば手に負えない事態となった。なぜか乱闘にまで発展するのである。
 このような事態になると、各ホールでは、トラブルを防ぐためのボディーガードを雇うようになった。

 1961年以降、ビートルズは先を走っていたロリー・ストームにも追いついたはずであるが、彼らの収入はさほど増えなかった。
 彼らには、専属のマネージャーというものがいなかったのだ。

 「自分たちがほかのグループよりどれだけ優れているかを知るには、時間がかかった。やがてどこへ行っても客が大勢集まるということがわかってきた。そればかりか、どこまでも僕等のあとを追い回し、見物するために集まるようになってきたんだ」(ジョージ)

 大ホールでの成功は、やがて地元での定期的な演奏活動ということに落ち着く。
 それまで活動の場だったカスバ・クラブは、今ではあまりにも小さ過ぎた。
 そこで尽力したのは、やはりボブ・ウーラーだ。
 ビートルズは、キャバン・クラブをメインとして活動することになる。
 キャバン・クラブは、リバプールで最大のクラブだったが、もともとはジャズ専用といってもいい場所で、それまでロック・グループは演奏することができなかった場所だ。

 キャバン・クラブはマシュウ通り8番地。
 界隈で一等大きなレコード店「NEMS」が、すぐ近くにあった…。


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