ジョージ・ハリソンは、メンバーに加わってから、ますますギターに熱中した。
 彼の熱心な態度を母親のルイーズは応援してくれたが、父のハロルドは心配していた。
 彼の考え方は、しごく当然のものであった。学校の勉強をちゃんとして、いい仕事に就いてくれればいい…。真面目な苦労人としては、当然の考え方だったのだ。
 すでに他の2人の兄弟は、真面目に働いている。
 ジョージは、2人が行かなかった学校に通っているのだ。それ以上の期待をかけたとしても、無理からぬところだ。
 だが、ジョージは学校を辞めると言い出す。
 これは父としてはショックだったろう。
 実は、これは、父のハロルドには内緒で、母親と2人で決めてしまったことだった。
 ルイーズにしても、世間並みに我が息子のことを心配したはずだと思うのだが、この人は、あくまでもジョージの味方だった。
 ジョージが入っているバンドの練習場として、家を使用することを認めたのも、この母親がいたからである。
 ビートルズの成功物語で、ジョージの母親は重要視されていないようだが、もしこれほどまでにジョージとそのバンドを応援した彼女の存在がなければ、果たして彼らは成功したのだろうかと考えてしまうほどだ。
 ほかの形でビートルズが芽を出したとしても、ジョン、ポール、ジョージという3人が一緒であった可能性はきわめて低くなったのではなかろうか。そんなことを考えると、ジョージの母は、ビートルズの成功に大きく貢献した1人だと言えるだろう。

 ジョージは、卒業まで待たず、16歳のときに学校を辞める。
 1959年の夏だった。
 学校を辞めても、すぐに就職できなかった彼は、結局、ポールと一緒に、ジョンのいる美術学校に通う。
 ただ、ジョンに会うためだ。

 それならば、彼はもうプロになることを決めていたのかといえば、そうでもなかった。
 電気技師の見習いをするようになったジョージは、オーストラリアやカナダといった外国へ移住することを夢みていたというから、考え方としては、まだ子どもだった。
 あるいは、若さ故に、将来の具体的なことを考えない判断停止状態でも、全然、気にならなかったというところか。


 ポールはポールで、学校にうんざりしていた。
 四六時中、ジョンやその取り巻き連中のいる場所にいるのだから、勉強どころではなくなっていたのも当然だった。
 学校の成績もひどくなり、ジョージのように辞めようとも考えるが、どんな仕事をすればいいのか分からない。
 父親が学校に残れといっていたせいで、かろうじてそこに踏みとどまっていた。

 ジム・マッカートニーにとっても、長男がバンドに明け暮れているのは頭痛のタネだった。
 彼は若いころにバンド活動をしていただけあって、音楽にはそれなりの理解を示していたはずだが、息子がやっている音楽は、自分の理解を超えていたのだ。
 ところがある日、仕事から帰った彼は、久しぶりに息子たちの練習を聞くことになる。

 「聴いてみると、ただやかましいだけじゃなくて、なかなかうまくなっていると感じました。きれいなコードを聴かせたりするんです」

 妻に先立たれたジムは料理を自分でやっていた。
 そこで、彼は、練習をしている彼らに食事の用意をしたりするようになるのである。
 ポールとマイケルは好き嫌いが激しく、あまり食べるほうではなかった。
 熱中しだすと、ポールは食事などまったくとらないことさえあった。
 そこへ行くと、ジョンとジョージはなんでも喜んで食べてくれた。ジムは大いに喜び、彼らが来ると何かしら食事を用意するようになったというわけである。

 「息子たちが残したものを彼らに出してやりましたよ。残り物だけど食べるかいなんて言ってね。ジョージは、私のカスタードが世界一美味しいって」


 コンテストに出場することで、チャンスを窺っていた彼らだが、メンバーは固定せず、スチュアートがベーシストとして入ったのちもドラマーがいなかった。
 それでも、彼らはコンテストに出場した。
 当時、イギリスで有名だったロックン・ローラー、ラリー・パーンズが主催するオーディションが開かれたときも、当然のように彼らは参加した。
 ドラマーは他のバンドに頼んだというのだから、なかなかの心臓だ。
 このときの貴重な写真が残されている。
 ビートルズ・マニアなら先刻ご承知のこの写真には、ジョニー・ハッチというドラマーが気乗りしない様子で映っている。ジョン、ポール、ジョージの3人が写真を通しても躍動的…特にジョンはなかなか様になっている…なのとはえらい違いだ。当然と言えば当然だろうが。

 そして、ベーシストのスチュアート・サトクリフ。
 服装も髪形も、憧れのジョンのようなスタイルにして、ただ1人、サングラスをしている。彼は目立たぬように観客に背を向けて演奏していたというのだが、このときは、下手(しもて)を背にし、ドラマーのほうに向いて演奏している。
 このときは観客よりも、ラリー・パーンズに見られないようにしていたらしい。
 まだ、ベース・ギターの演奏そのものに不慣れだった彼は、ただ必死だったわけで、カッコをつけるどころではなかったのか、その場に突っ立ったままだ。

 結局、オーディション合格者はいなかった。
 オーディションの目的は、ラリー・パーンズのバックで演奏するグループを見つけることにあったのだが、彼のメガネにかなうものはいなかった。
 だが、シルヴァ・ビートルズには、もう1つの話が持ちかけられた。
 ジョニー・ジェントルという新人歌手のバックバンドとして2週間のスコットランド巡業に出ないかというものだった。

 これはプロとしての最初の仕事である。彼らが断るはずがなかった。
 ジョージは、この時、まだ16歳。
 ポールは学生であり、きちんと卒業するためには遅れている分を取り戻さねばならない時期であったが、当然のように、スコットランド巡業を優先した。
 ポールが、勉強さえすれば学業をなんなくこなすことを知っている者たちは、これに反対した。だが、ポールはこれを説得、あるいはなんとなくごまかした。
 父親のジムを説得するのも大変なことだったようだ。

 この巡業には臨時のドラマーが参加したが、今では誰もこのドラマーのことを記憶していない。

 この巡業で特徴的だったことは、メンバーのスチュアートに対するイジメである。
 ジョン、ポール、ジョージは、もうそれぞれがよくわかっており、ケンカ口調で話したり、ズケズケと相手を批判することは慣れっこになっていたが、スチュアートは、どうすることもできなかった。口汚く言われたら、それ以上の言葉で言い返すなどというのは、彼の感覚にはなじまなかったのだろう。

 「僕らはひどかった。一緒に並んで座るな。一緒に飯を食うな。あっちへ行ってろ。スチュはおとなしく従うんだ」

 「そうやって慣れさせたんだ。バカみたいだけど、僕等はそんなふうだった」(ジョン)

 2週間の巡業は、あっと言う間に終わった。
 ラリー・パーンズは、これ以後、仕事を与えてくれなかった。

 仕方なしに彼らは、再びリバプールに戻り、運がよければ、週に一度か、二度という感じで仕事をするのだった。
 とにかく仕事を…というので、彼らはどこにでも出かけた。ストリプティーズの演奏までやっている。

 そんな彼らが出演したクラブの1つにカスバ・クラブがあった。
 経営者のベスト夫人は、戦時中にインドで結婚した夫のジョニー・ベストとともにリバプールにやってきた。夫は、ボクシングのプロモーターをしていたという人物で、資産家だったのだろう。住宅地区であるウェストダービーに14部屋もある邸宅を持った。
 長男はリバプールカレッジエイトという優秀校に通う真面目な子どもだったが、社交的な母とは違って内気なところがあった。だから、いつの間にかクラスメートを自宅へ連れてくるようになっていた。母親もそれを歓迎したのである。
 長男とその仲間たちは、大きな地下室をなんとか利用できないかとベスト夫人に相談する。
 ベスト夫人はこれを了承した。
 最初は単なる息子たちの遊び場のはずだったが、やがて、これが、十代のためのコーヒークラブをつくろうという話になる。
 カスバ・クラブの誕生だ。

 ベスト夫人の内気な息子、将来は教員になろうと考えていた若者は、ピートという名であった。
 やがて、ドラマーとしてビートルズと一緒に演奏活動をすることになる、あのピート・ベストである……。







9時から5時までの人間

 カスバ・クラブは十代のためのコーヒー・クラブということであるが、要するにこれは若者たちが集まる場所の提供である。
 ピート・ベストの母親はテディ・ボーイや与太者が集まるのを恐れ、それを会員制のクラブにした。
 しかし、一方で、若者たちを集めるには、それなりのものがなければならない。
 そんなわけで、幾組かのバンドが招かれたのである。
 まだ、クオリーメンだった当時のジョンたちのバンドもピートの仲間の少女からの推薦で選ばれている。
 ジョンとポールは開店前に店の掃除等をやっているというから、素人が商売を始めるというような、そんな雰囲気が伝わってくる。
 ジョンはペンキ塗りを頼まれてやっているが、近眼だったので分厚く塗り過ぎて、「開店までに乾くかどうか心配だった」とベスト夫人は語っている。

 ジョンは、メガネを持っていたのだが、それをひどく気にしており、普段はほとんどかけなかった。
 仲間と映画を見るときにも、かけなかったという。
 映画は見たい。だから映画館に行く。でも、眼鏡をかけた自分は見られなくないというわけで…。

 カスバ・クラブは1959年8月末に開店した。
 コーヒーとお菓子が出されたというから、日本でいうなら喫茶店である。そこに生のバンド演奏があるという店だったわけだ。
 クオリーメンは2カ月ほど演奏を続けたあと、しばらくしてシルヴァ・ビートルズとしてスコットランド巡業に出ている。

 ピート・ベストは、暇なときドラムを叩いていた。
 やがて、一時、クオリーメンにもいたケン・ブラウンと、ほかに2名を加えたメンバーでバンドを組む。
 ベスト夫人はこれを喜び、大いに援助した。ブラックジャックスと名のったそのグループは、次第にカスバ・クラブの顔となっていくのである。
 ベスト夫人は、息子のピートがショービジネスの世界に進むことを薦めたようなところがある女性で、このあたりは普通の母親とはかなり違っていたようだ。
 ピート・ベストは完全にその気になって、ついには学校も辞めてしまう。
 ところが、その途端にバンドは解散。
 それぞれがもっといい仕事を求めて辞めてしまったということなのだが、要するに本気で芸能界に入ろうとまでは思わなかったということだ。将来性、安定性といったことを考えれば、それは間違った判断とは言えないだろう。
 ピート・ベストはその気になって学校を辞めたものの、新しいドラム・セットを眺めているしかなくなった。
 そんなとき、電話があった。
 ポール・マッカートニーからだった。

 「ポールは、ハンブルグに仕事があるんだけど、俺たちのドラマーをやらないかと言った。僕はすぐにイエスと言った。報酬は週15ポンド。大金だった。教員養成所に行くよりはいい話だった」

 ハンブルグでの仕事は、5人編成のバンドという要求だったが、当時、加わっていたドラマーはドイツ行きを妻に反対されており、ドラマーの必要があった。その時に、ポールがピート・ベストを思い出したのである。
 このあたりの事情は、特に記憶して置くべきかもしれない。
 ピート・ベストは、欠員補充のために急遽招かれた男だったと…。

 既に述べたように、この時、ジョージ・ハリソンはまだ17歳。
 子どもといえば子どもだったが、一応、社会人である。(電気技師見習いの仕事をしていた)スコットランド巡業とは違って、今度は初めての外国巡業で、家族は反対した。だが、彼には強力な援護者である母親がいたのだ。

 「あの子が行きたいというんですからね。初めてまともな報酬がもらえる仕事でしょ。それに私はジョージたちの腕前を信用していました」

 ポールのほうは父親のジムが、やはり反対だった。ポールは教員養成所入学のための試験を受けたばかりだったのだ。
 ポールは彼らしく、まず弟のマイケルを味方につける。その上で、巡業の仕事のエージェントであるアラン・ウイリアムズを招き、彼から父親を説得してもらうのだ。

 「ポールたちが認められたことは分かっていた。最初の大きな仕事だから行きたいというのも。でも、ポールは18歳で学生だったからね。結局、学生のパスポートで行ったわけだけど、私としては年齢にふさわしい振る舞いを忘れないようにと言うしかなかった」

 いつも彼らの音楽を聴いていたジョージの母と、時々、聴くことのあったポールの父とは、それぞれに息子たちのバンドの成長ぶりを知っていた。どんな時も息子の味方をするジョージの母親の言葉はいくらか割り引くとしても、ポールの父、ジムは、バンド経験者である。心配はしながらも、息子たちがそこそこやるのではないかという手応えを感じていたのではなかろうか。

 問題はジョンだった。
 ミミ伯母さんは手ごわかった。
 彼女は、ポールとジョージが遊びに来ることさえ禁じていたのである。
 ジョンがまともな仕事を始めることを望んでいたミミは、ジョンがバンドから抜けることを望んでいた。
 ジョンには家でギターを弾くことも禁じていた。
 だから、ジョンは長い間、ウソをつきまくらなければならなかったわけである。
 ミミは、ジョンが真面目に美術学校に通っているものと思っていた。あるいは、思いこもうとした。
 ところが、お節介な人というのはいるもので、ジョンがキャバン・クラブで演奏していることを知らせた人がいたのである。

 ミミは、キャバン・クラブに出かけるのだ。

 「キャバン・クラブという恐ろしい場所のことは初耳でした。探すのに時間がかかりました。やっと見つけて入ると入場料をとるといいます。私は言ってやりました。『ジョン・レノンに会わせて下さい!!』」

 「物凄い音の中で女の子たちが押し合いへし合いしています。ステージには近寄れませんでした。ジョンを引きずり下ろしてやろうと思ったんですけどね」

 「私は化粧室で待っていました。汚いところでしたけどね。やがてキャーキャー騒ぐ女の子たちと一緒にジョンがやってきました。でも、メガネをかけていないので、私に気づきません。メガネをしてやって私に気づきました。『こんなところで何をしているの、ミミ?』。私は言ってやりました。『結構なことね、ジョン。本当に結構なことよ!!』」

 ミミは馬鹿げた音楽をやめて、まともな資格をとる勉強をするように何度も何度もお説教を繰り返したのだが、ジョンにはまったく効き目がなかった。

 ビートルズが成功してから彼らが語った有名な言葉の1つとして広く知られるようになるその言葉をジョンは当時からミミに言っている。

 「伯母さんにどういわれようと、僕は9時から5時までの人間で一生を終わるのはまっぴらだ」







  ハンブルグ

 なぜ、ドイツか。
 初期のビートルズの活動が、ドイツ、ハンブルグを中心とした巡業だったことは、不思議な気がする。それなりの理由があるのかと言えば、きわめて曖昧な理由からなのであった。
 リバプールでエイジェント兼マネージャーとして活動していたアラン・ウイリアムズのホラ話からすべては始まっていた。
 もともと、ナイトクラブ経営者として実績のあった彼だが、さらに手広く仕事を始めようと出かけたハンブルグで、当地の関係者に、イギリスではリバプールに優秀なロック・グループが集まっていると吹聴したのである。もちろんウソである。
 それを確かめにイギリスにやって来たブルーノ・コシュマイダーは、ウイリアムズの話がまったくのでっち上げだったことを確認したのち、ソホーのツー・アイズ・クラブで活動していたトニー・シェルダンとそのグループをハンブルグに誘い、これを成功させるのである。これに気をよくしたコシュマイダーは再び、ツー・アイズ・クラブを訪れ、別のグループを探しに来る。このとき、なんと彼に大嘘をついたウイリアムズがクラブにいたのである。
 ウイリアムズはリバプールからバンドと共にやってきていた。
 どんなふうに言いくるめたものか、あるいは実際に歌と演奏を聴いて確認させたものなのか、いずれにせよ、ウイリアムズが連れてきたバンドは、ハンブルグへ行くことになるのである。
 デリーとザ・シーニアズという名のそのバンドが、リバプールから初めてハンブルグへ出かけた者たちである。
 そして、一応の成功を得るのだ。
 これでウイリアムズはハンブルグへの仕事の道筋をつけたのであるから、なんでも言ってみるものである。
 今度は向こうから依頼があった。リバプールのグループをというのである。
 一押しはロリー・ストームズだった。だが、リバプールで最も人気があったこのグループは、すでに先約があり、これを断る。
 それでは…というので、お声のかかったのがビートルズだったわけである。

 ブルーノ・コシュマイダーが出迎えてくれた。
 彼らが演奏するはずのクラブはなかなか立派で満足すべきものだったが、実際は、違うクラブへ連れて行かれる。
 午後11時にその店に入ると、客はわずか2人だった。
 控室はトイレ、宿泊はホテルではなく、映画館の中という待遇だった。
 眠るのは夜遅くであり、眠ったと思ったら映画の音で起こされた。
 そんな待遇と、初めての外国ということもあってか、さすがの彼らも初めはビビっていたようだ。

 「客の反応はかなり冷淡だった。それでマネージャーが近くの店に出ているグループのように、もっと派手に動き回ってはどうだと言った。僕等はやってみた。最初に僕がやったのは、ジーン・ヴィンセントのように曲の途中で跳び上がることだった」(ジョン)

 その気になれば、こういうのはジョンのお得意である。
 やがて客が増えてくる。噂が噂を呼び、客が溢れ返るほどになった。
 ビートルズは意外なことにリバプールでは、かなりおとなしく演奏していたのだという。
 だが、異国の地で、客を惹きつけるために、彼らはステージ上をできるだけ派手に動き回る必要があった。
 ジョンはこれを心から楽しんだようだ。
 彼は、跳び上がり、床にころがり…、あらゆることをやったという。
 ドイツでは、当時のジョンの様子がさまざまに語り継がれているという。

 彼らは、連続して8時間も演奏しなければならなかった。リバプールではせいぜい1時間だったのだから、これは大変である。
 必要に迫られて、新たな演奏方法を考え出さなければならなかったというが、それは当然だろう。

 2カ月後、彼らが演奏していたクラブは閉鎖された。
 近所から騒音で訴えられたのである。
 それまで、ほとんど客がこなかったクラブに午前2時まで人がごった返すようになったのだから、それだけで雰囲気は様変りしたはずである。
 新たなクラブでの演奏は、よりハードなものだったが、彼らは相変わらずガンガン演奏し続けた。
 喉が痛くなるまで歌いまくったという彼らだが、大したものを食べずに、睡眠もあまりとらず、酒だけはガブガブと飲みながら、よくも続いたものである。
 しかも、集まった客同士でケンカが始まる。
 まるで映画の1シーンのようにシャンデリアにぶら下がったりテーブルに飛び乗ったりという派手なものだった。
 ビートルズも仲間同士でケンカをしている。
 殺伐とした雰囲気だったのかどうかは分からないが、彼らのケンカも日常茶飯だった。

 「ケンカはみんなくだらないことが原因だった。ハードな仕事にイライラしていたからなんだ。僕等はまだ、子どもだったんだ」(ジョン)

 このクラブには、同時期にリバプールからもう1つのグループがやってきていた。
 ロリー・ストームである。
 もともとハンブルグでの仕事は、最初、彼らに声がかかったのだが、何しろ彼らは人気があった。先に契約していた仕事があったのだ。
 
 ロリー・ストームのドラマーは、休憩時間になるとビートルズの演奏にじっくりと耳を傾けていた。時にはリクエストまでしている。
 ジョージは当時のことを覚えている。

 「僕はロリーのドラマーの顔が気に入らなかった。髪に白いものが混じっていたりして、なんだかいやらしい奴だと思った。ところが、そのいやらしい奴が、グループでは一等気のいい奴だった。リンゴだったんだからね」

 カスバ・クラブのオーナーの息子、ピート・ベストは、リンゴのことを知っていた。ロリー・ストームもカスバ・クラブで演奏していたグループの1つだったからだ。だが、ほかのメンバーは誰も記憶していない。カスバ・クラブで演奏していたときには、自分たちのことだけで精一杯だったのかもしれない。
 だから、ハンブルグでの出会いが、ビートルズとリンゴの事実上のファースト・コンタクトという事になる。

 ビートルズはドイツにいても、一般のドイツ人とはほとんどふれあいがなかった。
 彼らが演奏していた地区は、まともな市民は近づかない場所でもあったのだ。
 だが、ふとした偶然で、彼らはドイツで初めて知的なファンを獲得する。
 クラウス・フォアマンとアストリッド・キルヒヘアの2人だった。

 クラウスはベルリン出身の医者の息子。ハンブルグで美術学校に入り、その学校で知り合ったのがアストリッドだった。
 彼女も写真を学んでいた。2人とも、この頃はすでに社会人だった。
 クラウスは雑誌社に勤めポスターを描いており、アストリッドはカメラマン助手として働いていた。
 2人は、学生時代から交際を続けていた。

 ある晩、クラウスは映画でも見ようと歩いているうちに、地下から大きな音が聴こえるのに気づく。

 「何ごとかと思って、僕はおりていった。そういうクラブに入るのは初めてだった。地下の光景はすごかった。客はみんな革ジャンのロック・ファンだった」

 あとで考えるとその時演奏していたのはロリー・ストームだった。
 クラウスは、ただただ驚き、そのまま腰を下ろして耳を傾ける。

 「次に出てきた連中の異様な格好に、僕は思わず目を見張った。曲目は『スイート・リトル・シックスティーン』で、ジョンが歌っていた。それはロリーのグループ以上に感動的だった。僕は目が離せなくなった」

 「どうしてグループであんな上手に、あんなに強力で風変わりに演奏できるのか僕にはわからなかった。しかもステージ上で彼らは絶えず跳ね回っていた。それが多分8時間以上も続いたんだ」

 翌日、クラウスは、再びやってくる。
 彼は、なんとかしてビートルズと係わりを持ちたかったのだ…。



 

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