ジュリアの死…

 ジョージとポールはインスティチュート中学に入学して、すぐに知り合ったという。
 2人ともバス通学であり、同じ中学ということで話すようになったのだろう。
 そして、2人ともギターをやっていた。ジョージがギターを始めようとしたのはポールのせいかというと、そういう事実はないようだ。
 当時は、それまでになかったほどのアマチュア・バンドがブームとなっており、流行にめざとい若者であれば、それに興味をもったということは当然のことだったと思われる。
 やがてポールはジョージの家に遊びにやってくる。
 そこで初めて、ジョージがギターをやっているということを知ったのか、あるいはギターをやっているということで、興味を抱いて訪れたのかは定かでない。しかし、これ以降、2人は、いつも一緒にいるようになった。ポールはジョンと親しくなる以前は、ジョージと暇な時間の大半を過ごしていたのである。

 ジョージはポールによって、ジョンが率いるクオリーメンと出会うわけである。
 この時点では、2人とも特に、バンドには加わっていなかった。
 すぐに始めてしまうジョンとは違って、2人はそれぞれ、ある意味で慎重だった。初めから向上心が強かったせいなのかもしれない。

 ジョージの母、ルイーズによれば、ジョージは、自分は上手いと自惚れるようなところがまったくなかった。

 「いつも自分より上手な人のことを話してるんです。私は、一生懸命やれば、いつかあなたもそうなれると言ったものです」

 ジョンが初めてジョージに出会ったときの印象は、こうである。

 「最初は年を訊く気にもなれなかった。まるで子どもに見えた」

 信頼しているポールの紹介にも係わらず、すぐに仲間に加えるのをためらい、腕前を確認したのは、そのせいだった。
 結局、ジョンは、自分よりギターのコードをたくさん知っているという理由で、仲間に加えたというのが、本当のところのようだった。
 最初からウマが合ったポールとは違う。

 「一度、僕のところに来て、一緒に映画を見ないかと誘われたけど、忙しいからって断った。最初は、なんだかよくわからない奴だった」

 ジョージのほうはといえば、大人のジョンに大いに興味を抱いたようである。
 ジョンはいかにも攻撃的だった。皮肉っぽく相手をやり込めるのが、ごく普通の日常会話なのだ。
 それは、新参のジョージに対しても例外ではなかったが、ジョージはそれにめげることはなかった。皮肉を言われても無視したり、お返しに皮肉な言葉を返したりした。もちろん、どこかに笑える要素とか、センスの良さのようなものがなければ、たちどころにケンカになるはずだ。
 次第に、ジョンはジョージを認めるようになる。
 他のクオリーメンのメンバーは、ジョンの辛辣な言葉に耐えられなくなるか、バンドそのものに飽きがくるなどして、次々に入れ替わった。

 結局、ジョン、ポールに加えてジョージがクオリーメンの固定したメンバーとして残る。

 「ポールと僕は要するにウマが合った。ジョージが加わって、同じ考え方をする人間が3人になったんだ」

 3人は、揃ってエルビス・プレスリーが好きだった。
 新しい曲をラジオで聴くたびに、なんとかして同じように演奏しようと試みていた。
 素人バンドとしては練習の場所が問題となるはずだが、ハリソン家は、社交的なルイーズがおり、ほとんどいつでも利用できた。
 ポールの家も、父親が不在のときは、利用できた。

 ジョンの家は無理だった。
 母親代わりのミミが、頑として受け付けなかったからだ。
 ジョンを心配していた彼女は、そうすることが最善の教育だと信じていたのだろう。

 「ポールはよく家の前にやってきました。『こんにちは。ミミ。入ってもいいですか』。ずるそうな目で私を見て言うんです。でも私は言いました。『いいえ。絶対だめよ』」

 ジョンはジョージを盛んにほめて、いい奴だから気に入るとミミに言ったが、ミミはジョージの服装を見て、拒絶した。

 「私は好きになれませんでした。学生があんな格好をするなんて。ジョンは16歳でしたけど、私は、学校で決められたブレザーやシャツを着せていたんです」

 気に入られようとして服装を改めることもしなかったジョージも、なかなか頑固者のようだが、ピンクのシャツでは、やはりミミのお気に召すわけにはいかなかったようだ。

 ジョンにしても、いつもミミがいうような格好をしていたわけではない。
 美術学校に通うようになったジョンは、細いジーンズの上に普通のズボンをはいて家を出た。バス停では、あっという間ににテディ・ボーイに変身したのだ。
 ジョンは、ミミの前でだけは、「いい子」にしていたのである。

 そんなわけで、大抵の場合、ジョージのすることはなんでも認めてくれた母親ルイーズのいるハリソン家が、彼らの練習場となった。
 どの親からも蛇蝎のごとく嫌われていたジョンに対してさえ、ルイーズはちょっと違った見方をしている。

 「ジョンはいつも、ちょっとイカれてましたわ。絶対にしょげたところを見せないところなんかは、私そっくりでしたよ」

 ジョンは美術学校に通うようになって、見かけは本当にテディ・ボーイ…不良少年そのものだった。

 彼自身としては、そんな感覚ではなく、単なるロック・ファンだと思っていたらしいのだが。
 しかし、そんな格好をしている者はほかにいないのだから、周囲が見る目は、やはりそんなところだったわけだ。

 中学の校長に、絵の才能を認められて編入した美術学校だが、彼が入ったのはレタリング専科。
 きちんとしたところがないジョンには、まったく興味のもてないものだった。
 それでも学校を辞めなかったのは、就職するよりはましだったからだ。
 それに、無軌道な生活ぶりを是認する人がいた。
 母親のジュリアである。
 この頃の彼女は、ミミよりも、はるかに深くジョンとの係わりをもっていた。
 ジョンは、まさにジュリアを頼みにしていた。それこそ、彼女は“自分と同じ考え方”の人間だったからだ。

 「随分、前から僕とジュリアは本当に親しくなっていた。僕等は互いに理解し合っていた。ウマが合った。ジュリアは素晴らしい人だった」

 ジュリアは、ジョンのすべてを受け入れてくれたただ1人の人物だった。


 だが、悲劇は突然やってくる。



 ジョンは、ジュリアの家で“顔面神経痛”と一緒にいた。

 「お巡りがやってきて、君は息子かと訊いた。まるで映画の場面みたいだった。それからお巡りは、事故の話を切り出し…僕たち2人は蒼くなった」

 1958年7月15日の夜。1人の女性が車にはねられ、その生を終えた。

 ジョンは、実の母であり、一番の理解者だったジュリアを失うのだ……。







シルヴァ・ビートルズ

 その夜、ジュリアは、ミミの家で話したあと、1人でバス停に向かった。
 夜10時20分前にの家を出て、1分もしないうちに急ブレーキの激しい音が聴こえた。

 「私はいつも妹をバス停まで送って行ったんですけど、その夜に限って、いつもより早めに1人で帰ったんです」
 
 「恐ろしい音が聴こえました。飛び出して行ってみると、ジュリアは私の家の前で車にはねられて死んでいたんです。その正確な場所は誰にも教えません。いつも通る場所ですから、あとあとまで心の傷になってはいけないと思ったんです」(ミミ)

 ジョンの友人たちに、ジュリアの死の知らせはたちまち伝わった。
 ジュリアの死がジョンにとって相当なショックであったことは疑う余地はない。
 幼友達のピート・ショットンによれば、ジョンは気持ちを外に表わさなかった。
 これは、いつのまにやら身につけたジョンの生き方の1つだった。教師に殴られても、けして感情を表わさず、何を考えているのかわからない。その時の態度と同じだった。
 その代わり、ジョンが一段と粗暴な振る舞いをするようになったことを記憶している。

 「女の子がジョンに怒鳴っていた。『いくらお母さんが亡くなったからって、私に八つ当たりしないでよ』ってね」

 ジョージの友だちであるジョンに、ほかの親たちとは違ったまなざしを向けていたハリソン夫人ルイーズは、ジュリアの死がジョンにもたらした影響を明確に覚えていた。

 「亡くなる数カ月前には、ジョンは、お母さんと随分仲よくなっていたようです。こんなことを言っていたのを覚えています。『おふくろに死なれて平気で生活している奴の気が知れないよ。もしそんなことになったら、僕は多分、気が狂うよ』。

 「気が狂ったようには見えませんでしたが、顔を見せなくなりました。自宅に閉じこもるようになったんです。また我が家でバンドの練習をするように、ジョージを通して伝えました」

 母を失ったジョンは、ポールとより親密になった。
 既に母を亡くしていたポールは、ジョンの気持ちが痛いほど分かったはずだ…。

 仲間との絆がいっそう深まったのとは逆に、美術学校でのジョンの評判は芳しくなかった。
 当時を知る者によれば、ジョンは他人を傷つけるような言葉や残酷なジョークを口にするようになった。
 街で体の不自由な人を見かけると、わざと大きな声で「軍隊から逃げたいばっかりに、いろんなをことをする奴がいるんだってなあ」…といった調子だ。
 これでは、普通の感覚の人間はそばに寄らないだろう。
 実際、美術学校のほとんどの生徒は、ジョンを恐れていた。そばにいれば、何を言われるかわかったものではないのだ。
 だが、それでもジョンには説明しがたい魅力があったと認める者たちもいたのである。

 「よく残酷な絵を描いてました。とても巧かったけど…。女の人たちが赤ん坊を抱いて、『かわいいでしょう?』なんて言っているんですけど、赤ん坊は、みんななんというか…障害児で、すごい顔をしているのよ。
 「ローマ法王が亡くなったときも、気持ちの悪い絵をたくさん描いていたわ。たとえば法王が天国の入口のところで門を揺すって入ろうとしているの。その下に書いてるのよ。『分からないのか。私は法王だぞ』ってね」

 「でも、彼の周りには、いつも話を聞きたがる人たちが集まっていたわ。1人、ジョンに夢中な女の子がいたけど、いつもジョンのことを嘆いていたようだったわ」

 当時の取り巻きの女の子の1人だったセルマという女性の言葉である。
 ジョンはセルマが語った当時の自分を否定していない。

 「僕はセルマみたいな気安い連中に、年中、金をたかっていた。残酷なジョークは確かに言っていた。初めは学校内だけだったけど、酔っぱらったりなんかすると外でも言った。傷つけるつもりはまったくなかった。あれは、僕にとっては日常会話だったんだ」

 いずれにしても、この時期、ジョンが心を閉ざさずに話していたのは、ポールやジョージ、その他ごく少数に限られたはずである。
 だが、突然、ポールとジョージを差し置くかのように、現われた者がいた。
 
 スチュアート・サトクリフ。
 彼は、ジョンとはまったく違うタイプだった。
 周りのものは、この2人が親しいということが信じられなかった。
 粗暴なジョンと違い、スチュアートはいかにも将来の芸術家という雰囲気を漂わせている若者だった。ひとことで言えば“将来を嘱望されていた”人物だったのである。
 ジョンはスチュアートの幅広い知識、芸術的才能に惹かれたが、スチュアートがジョンに惹かれたというのは、周囲には解せない事であったかもしれない。
 スチュアートがジョンに惹かれた感じは、後年、マネージャーを買って出るブライアン・エプスタインの場合と似たところがあった。
 彼は、昼休みにジョンとその仲間のバンドが演奏したのを聴いて、いっぺんに魅せられてしまったのである。
 当時、ジョンの音楽をそれほど買った人間はいない。
 前段に登場するセルマにしても、ジョンの曲をまともには聴いていない。なにしろ素人が曲を作り、それを歌い、演奏して、成功するなどという概念がないのだ。
 そんな途方もないことは、誰も考えつかなかった。だから、演奏を聴いても評価の対象というものではない。まあ、なにかやってるわという程度のこと以上、考えられなかったというのが正確なところだろう。
 セルマは、当時のジョンについて次のように表現している。

 「彼は有名になれる人だとは思いましたけど、何で有名になるかはわかりませんでした。随分人と違って、オリジナルでしょ?」

 彼女は、ジョンが喜劇役者にでもなるかと思ったという。爆笑させるというよりも、たとえば、レニー・ブルースのように強烈な風刺で、権力者や世の偽善を暴くようなタイプをイメージしたのかもしれない。
 つまり、ジョンの音楽をまともに評価し、素晴らしいとほめたのはスチュアートが、おそらく初めてだったわけだ。
 彼には非凡な芸術的才能があったが、楽器も弾けなければ、ロック音楽についての知識も皆無だった。
 にもかからず、彼はジョンとそのバンドの練習を見守り続け、ついにはその一員となるのである。

 スチュアート・サトクリフの美術的才能は疑う余地がなかった。
 彼は、イギリスで有名な「ジョン・ムーアズ展」に絵を数点出品し、賞金を獲得する。それは学生の身分としては大金といってもいい額だった。
 このとき、彼に楽器を買うことを薦めたのはジョンだった。
 もう1人メンバーが欲しいと考えていたのはポールとジョージも同じであり、これに賛成した。
 バンドに欠けていたベース・ギターとドラム・セットのどちらかを選ぶことになり、結局、スチュアートはベースギターを買う。多分、ドラムでは身近に教えてくる者がいなかったからだろう。
 スチュアートは、ただ、ジョンたちと一緒にいるだけで、楽器はまったく弾けなかった。ほかの3人に教わって、ステージに立つのだが、(それこそが彼の望みだった)すぐに上達するはずもなく、彼は客に背を向けるようにして演奏していた。

 彼らは素人バンドから一歩踏み出すため、チャンスを狙い、コンクールに出場するようになる。その頃にはすでにクオリーメンではなくなっており、特にバンド名もなかったのだが(一時、ムーンドッグと名のったこともある)、コンテストに出るとなるとバンド名が必要だった。
 その時に、ジョンが考えついたのがビートルズというものだった。
 当時、バディー・ホリーとザ・クリケッツというグループがあり、それをヒントに考えついたものだ。
 クリケッツにはイギリスの伝統的な球技である「クリケット」と「コオロギ」という2つの意味がある。ジョンもなにかいいのはないかと昆虫の名前を考えているうちにビートル、カブトムが頭に浮かんだ。

 「僕はそれ(beetles)をBeatlesと綴ることにした。これはただの冗談みたいだけど、このほうがbeatビート音楽らしく見えるだろう?」(ジョン)

 ビートルズという名前が、こうしてこの時期から使われるようになる。
 だが、ユニーク過ぎたのか、必ずしもウケはよくなかった。だから、当初は「シルヴァ・ビートルズ」というバンド名でコンテスト等に出場することになる……。

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