ポールの父親、ジム・マッカートニーは、すでに述べたように若いころにバンドをやっていた。だから、この人は、息子にも音楽をやらせようとした形跡がある。
最初は聖歌隊に入れようとした。
だが、ポールは、そのテストでわざとしわがれ声で歌った。拘束されるのがいやだったのだろう。
短期間だけ、教会の合唱隊に入っていたこともあるが、長続きしなかった。
特記すべきは、このあと叔父からトランペットを譲り受け、独習しているということだろう。
ギターの前に、トランペットをやっていたわけである。
このとき、早くも、耳で聴いた曲は吹けるようになったというから、やはり父親の才能を受け継いだのかも知れない。
ジョンの仲間だったピート・ショットンは、ジョン・レノンとポール・マッカートニーが初めて出会った時に居合わせた男でもある。
だが、ピートは、初めて会ったポール・マッカートニーに特別な印象を受けていない。
なにしろ、年齢が違った。
子どもの頃は学年が1つ違うだけでも、まったく違う世界の住人に思えるものだ。ポールがジョンを大人だと思ったのとは逆に、ピートがポールを子どもだと思ったのは当然だろう。
だから、彼はこう言う。
「僕は嫉妬しなかった」
だが、これには、「最初の頃は」という言葉がつくのである。
ピートは、誰よりもジョンと深い絆で結ばれていると信じていた。まさか、こんな子どもが、自分のライバルになるとは予想もしなかったのである。
ジョンは、ポールに会ったとき酔っぱらっていたはずなのだが、ピートとは違って、強烈な印象を受けたようだ。
この頃のジョンは、考えるより先に行動を起こしていたようなところがあったのだが、ポールに会ってから、ぼんやりとして何も手につかなくなったという。
「あいつはオレと同じくらいうまいぞと思った」
ポールのほうは自分のほうがうまいと思っていた。ジョンのギターは、まるでバンジョーを弾くような感じで、コードもあまり知らないようだと見抜いている。
それでも「悪くなかった」というのは、おそらく、音楽的なセンスというような意味合いなのだろう。
ジョンは、「何となく腹が立っていた」感じだった。
それで、ポールという男をどう扱うべきかを考えるのである。
「僕はそのときまでボスだった。あいつと組んだらどうなるだろう。僕はいつもあいつを追いかけていかなきゃならなくなる。でも、ものすごく上手だから、仲間にする価値はある…」
負けず嫌いのジョン君としても、じっくり考えているうちに、自分よりポールがうまいという事実を認めないわけにはいかなかったのだろう。
「要するに、僕は『トウェンティ・フライト・ロック』を演奏する彼にいかれちまったんだ」
クオリーメンのメンバーになったポールは、早くも自分で書いた曲をジョンに聴かせている。彼は、ギターをやり始めた当初から、自分で曲を作ろうとしていた。
これはその当時としては、非常にユニークなことだった。
これに触発された形で、ジョンも曲づくりを始めている。
彼は、それまでにも、既存の歌詞やメロディーを引用する形で、適当にでっちあげて歌っていたのだが、あくまでもそれはお遊びだった。
ところが、ポールはまったくのオリジナルな曲をすでに何曲も作っていたのだ。
もちろん、曲としては、まだまだ幼いものであったかも知れないのだが。
ジョンが影響されたと同時に、ポールもまた、ジョンに影響されていた。
「ジョンと知り合ってよかった。彼は僕より2つ年上だったけど、僕等は同じようなことを考えていた」
2人は四六時中、一緒だった。
学校をサボってまでギターの練習をした。
場所はポールの家だった。父親が仕事に出てから、2人は堂々と家の中でギターを弾いていたのだ。
明らかにジョンは、ポールに劣っていた。
ポールは知っている限りのコードを教えた。ジョンには、もう誰がボスだとか、自分が年上であるというような意識はなくなっていたのだろう。
ポールは、ギターを弾き始めたとき、なかなか上達しなかった。
自分が左利きであるにもかかわらず、普通に弾こうとしていたからだった。
夢中になってギターにのめり込んだのは、ギターを左利き用に改造してもらってからのことだ。
このとき、ジョンはポールに教わったコードを家へ帰ってから鏡の前で確認しながらまた練習したという話もあるのだが、それはどうも嘘くさい。その場で鏡を利用すればいいのだから。
ピート・ショットンは敗北感を味わっていた。
少なくともバンドの一員としては、居場所がなくなった。自分の音楽的な才能についても見切りがついたのかも知れない。
ジョンとポールの中に入っていくことは、もう無理だった。
アイバン・ボーンは相変わらずジョンの友だちだったが、最初からほとんど音楽を通じては係わっていなかったようだ。
ジョンの仲間で唯一勉強ができた彼は、ポールと同じ学校だったから、学校ではポールとも交流が続いていた。
ジョンとポールの蜜月時代は続くのだが、やがてポールに、1つの考えが生まれてくる。
もう1人、是非、バンドに入れたいと。
自分と同じインスティチュートの仲間に心当たりがあったのだ。
自分よりも年下だったが、なにしろギターが巧かった。
やがて、アイバンは面白からぬ心境を味わうことになる。
ピート・ショットンと同じく、自分こそジョンの一番の親友だと思っていたのであろう。
ポールをジョンに引き合わせたのは自分だというのに…。
アイバンは、ポールがジョンに引き合わせた男を見て、なんてことだと思った。
その男はポールよりも若かったが、見たところテディボーイそのものだったからだ。
「初めてクオリーメンの連中と会ったのは、彼らがガーストンのウイルソン・ホールで演奏していたときだった。ポールが遊びに来いと誘ってくれたんだ。どこかのバンドに入りたいと思っていた時だったから、僕は出かけて行った。ポールの友だちだというので、僕はジョンに紹介された」
「その夜、違うバンドにとてもうまいギタリストがいた。ジョンが、あのくらい弾けたらグループに入れてもいいといった。そこで、僕は『ローンチー』を弾いた。ジョンは、よし、入れてやるって。それ以来、『ローンチー』はよく演奏したよ。バスで遠出するときなんかにジョンがよく言ったものさ。『ローンチーをやってくれよ、ジョージ』」
ポールの友だちのジョージ、つまり、ジョージ・ハリソンである。
(※「ローンチー」は当時人気のあったジミー・リードのブルース・ナンバー)
ハロルド・ハリソンは14の年には学校を辞めて働いていた。
1926年から36年までは、海運会社のボーイ長だった。
30年にルイーズ・フレンチと結婚。
ルイーズの父はアイルランド出身であり、ルイーズは当然ながらカトリックだった。
ハロルドはカトリックではなかったため、結婚は教会でではなく、登記所で済ませている。
結婚後もハロルドは海での仕事が続くが、2人目の子どもが生まれたあと、海運会社を辞している。船の生活の大変さが身にしみたせいもあるし、子どもと一緒にいたいという考えも強かったようだ。
だが、当時は不景気の真っ只中であり、このあと家族は、15カ月もの間、失業保険で暮らすことになる。
37年にバスの車掌となり、翌年には運転手となった。
40年に3人目の子が、そして44年に4人目の三男として誕生した子どもはジョージと名づけられた。
これがジョージ・ハリソンである。
ルイーズは大柄な父親譲りの丈夫な体で、明朗、快活な女性だった。
一方、ハロルドは、細身で、クレッチマーの体型による性格判断そのままに、真面目で慎重な性格だった。
ハロルドが初めてジョージを見たときの印象はこうだった。
「妙な感じでしたよ。私をそのまま小型にしたようじゃないですか。こりゃまずい。こんなに私に似ていいのだろうかと思いました」
だが、似ているのは顔つき、体つきだけだった。
ジョージは、幼いときから強烈な個性を発揮するのである。
ルイーズがその一端を披瀝してくれる。
「ジョージは人の手を借りるのを嫌がりました。お使いを頼んでも渡したメモをすぐに捨ててしまうんです。たとえば肉屋さんは、カウンターの上に顔だけだしたジョージを見つけて、『メモはないの』って訊くんですけど、ジョージは言ったんですって。『メモなんかないよ。一等いいポークソーセージを4分の3ポンドちょうだい』って。ジョージはそのとき2歳半くらい。近所でも有名でした」
カトリックの洗礼を受けていたジョージをルイーズはカトリック系の学校に入学させたかったが、戦後のベビーブームの関係で、どこも定員一杯。しばらく待機しなければならない状態だった。
仕方なく入学させた公立の学校は、ジョンが通ったのと同じダヴデイル小学校だった。
ジョージの兄であるピーターはジョンと同学年、ジョージは学年では3つ下になる。
この当時の交流はまったくない。
子どもの頃から「知能がとても進んでいた」(母ルイーズ・談)ジョージは、学校の成績も悪くなかった。
当然のように、優秀な子が入るインスティチュート中学に入学。
1年先輩にポールがいたのである。
ジョンは、クオリー・バンク中学の4年だった。
ジョージが真面目に勉強をしていたのはわずかな期間だった。
授業は、教師が読み上げるのを書き取るということが多かったようなのだが、彼にはこれが気に食わなかった。
「教員養成所を出たばかりのバカみたいな奴が読み上げるのを一生懸命書き取るなんてくだらないったらないよ。無駄なことだ」
当時の彼がそのような言葉で反発していたかどうかはわからないが、とにかく学校に対する反発は強かったようだ。
「いろいろなことが僕をうんざりさせた。僕はただ自分自身であろうとしただけだ。教師たちは、すべての人間を画一的なキャンディの粒に変えようとするんだ」
彼の反抗心は、ジョン・レノンとは違う形で現われた。
ジョンが、ケンカに明け暮れるトラブルメーカーだったのに対し、ジョージは、服装や外見で周囲を驚かせたのだ。
日本流にいえば、カブキものである。
「歌舞伎」は、もともとは「かぶく」という言葉から出た言葉。「かぶく」とはすなわち、異様な身なりをすること。人の目につく衣裳を身につけることなのである。
ポールの弟、マイケルの記憶によれば(彼も同じ中学だった)、まだ誰も長髪にしていないころから、ジョージは髪を長くしていたという。
「あの子は大きく盛り上げた髪の毛の上に、ちょこんと帽子をのっけて学校に行きました。ものすごく細いズボンをはいてね。こっそり私のミシンでズボンを細めに縫い直していたんです。ブレザーの下に派手な色のチョッキを着ていくこともありました」(母ルイーズ・談)
「しゃれた服を着ること、人と違った格好をすること、それが反抗の形だった。学校なんかなんとも思っていなかった。僕はなんとか個性を失わずにいられた。僕は教師たちに理解されなかった。いまにして思えば、それが嬉しいね」
当然ながら、ジョージは教師たちの目の敵にされた。
彼もまた、ジョンとは違った形のトラブルメーカーだったのだ。
だが4年生になったころから、ジョージは、少々態度を改める。
「冷静にしていること、沈黙していることが一等いいとわかったんだ」
ジョージが落ち着いたのを見て、母のルイーズは安堵した。なにしろ、中学に進んだのは彼だけだったのだ。ジョージは、ハリソン家の期待の星だった。
教育を安定した職業を得るために必要なものとして考えたのは、当時の親たちならば、ごく普通の考え方である。
海から陸の生活に変えたとき、就職難で苦労したハロルドも、わが子がいい学校を出て、いい職業に就くことを願うのは当然のことだった。
だが、夫人のルイーズは、そうした考えに凝り固まることはなかった。
明朗快活なこの女性は、常識程度にジョージをいさめることはあっても、結局は、どんなときでも彼の味方をしたのである。
彼女は、音楽やダンスが好きだった。
市バス従業員社交クラブで、初心者のためのダンス講習会を10年も続けたというから、相当なのめりこみようである。
ある日、それまで音楽にほとんど関心を示さなかったジョージが、ギターを始めたとき、彼女はこれを大いに喜んだようである。
ジョージは誰にも教わらず、独学でそれをものにしようとしたが、なかなかうまくいかなかった。
「私はいいました。『大丈夫よ、大丈夫よ。とにかく続けなさい』。ジョージは指から血が出るまで続けました。午前2時とか3時まで練習についてやったこともあります。そのたびにジョージは『ダメだよ。ものにならないよ』と弱音を吐きましたが、私は『大丈夫よ、大丈夫よ』と励まし続けました」
「ママは本当に僕を励ましてくれた。僕のしたいことを絶対にけなさなかったのが最大の励ましだったと思う」
こうしてジョージ・ハリソンは、少しずつ、ギターの腕前を上げていくのである。
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