ジム・マッカートニーは1902年の生まれで、兄弟姉妹7人という家庭環境だった。
 14歳のときから紡績関係の仕事に就いている。
 綿花輸入卸商で使い走りの少年だった彼は、28歳になると綿花のセールスマンとなる。
 当時、紡績業は隆盛をきわめ、リバプールは綿花の輸入で賑わっていた。つまり、ジムはどちらかといえば恵まれた環境で生活していたわけである。
 大戦が始まると綿花取引所は閉鎖されるが、今度は技術者として戦闘機のエンジンを造っていたネイピアズという会社に勤めている。彼がそこで具体的にどのような仕事をしていたのかは不明だが、戦争という状況下でもあり、働き手としての優秀さを認められたことは間違いない。

 1941年、39歳のとき、メアリ・パトリシアと結婚。
 1942年6月18日、ジェイムズ・ポール・マッカートニーが誕生。
 彼は、リバプールの病院の個室で生まれている。
 戦争中に病院の個室で誕生とは贅沢な環境で生まれたものだが、これには事情があった。
 メアリはナースであり、以前、この病院の産婦人科に勤めていた。ジムと結婚したときに病院を辞め、保健師として働いていた。出産のために、元勤務していた病院にやってきた彼女は、特別待遇を受けたのである。

 ジムは兵役にとられなかった。
 子どもの頃の事故で、片方の耳が聴こえなかったのである。
 それに、第二次対戦では、年をとり過ぎていた。
 ネイピアズの仕事がおしまいになると、彼は市の清掃課の監督として勤務した。
 
 1944年、次男、マイケルが誕生。
 ジムの給料は、全盛時の紡績関係の仕事に比べると薄給だったため、メアリは保健師に戻り、その後、2地区を受け持つ助産師となる。
 彼女は生真面目な努力家で、ジムに言わせると「必要以上に働く」女性だったという。

 2人の男の子はそれぞれに個性を発揮した。
 次男のマイケルは議論好きで、どこか騒がしい印象であるのに対し、長男のポールは、物静かな子どもだった。それでいて、与えられたことはテキパキとこなす。このあたりは母親によく似ていた。
 やがてポールは、リバプール・インスティチュートという中学に入学する。
 これはリバプールでも一等有名な中学校であり、入学後も成績優秀な生徒だった。
 しかし、彼はかなり早熟な少年でもあったらしく、女の子に興味がいくようになるころから、勉強をしなくなるのだ。

 「学校の勉強にどういう意味があるのか、説明してくれた人は、誰もいなかった。父は卒業証書が社会に出てから役立つとか、そういうことしかいわなかった」

 「僕はときどき盗みをやった。店のオヤジのすきを盗んでタバコなんかをね」

 勉強しなくなったポールだが、1953年のエリザべス女王戴冠の年に作文を書いて、「特別戴冠賞」なるものを受賞している。頭の回転が早く要領のいい少年像が浮かんでくる。

 このころのポールは、すこし肥満気味だった。
 弟のマイケルとケンカをすると、決まって「デブ」と言われたのである。

 ポールが14歳の時、母親が体調を崩した。
 胸に痛みを感じ、それが何日も続いた。年齢的なこともあり、本人は更年期障害であろうと考えた。事実、何人かの医者に診てもらったが、大したことはない。更年期障害だろうという診断だったのである。
 だが、胸の痛みは次第に強くなっていく。

 メアリは専門医の診断を受ける。
 癌だった…。


 弟のマイケルは帰宅し、家に入ると母親が泣いているのを目撃する。
 彼は自分たち兄弟が何か悪いことをしたのが、いけなかったのだろうかと思ったという。
 手術が行われたが、彼女は亡くなった。

 知らせを受けた2人の子どもはそれぞれのベッドで泣いた。

 「もし母を返してくれるのなら、僕はいつもいい子でいますとお祈りをした。その結果、宗教は馬鹿げていると思うようになった。だって、一等必要なときに、お祈りが役に立たなかったんだもの」(ポール)

 残されたジムは途方に暮れた。
 14歳と12歳という思春期の子ども2人を抱えて、53歳の彼は、経済的にも、精神的にも苦しむことになるのだ。
 実際、この家では、母親のメアリの稼ぎのほうがずっと多かったのである。

 ジムの妹、ミリーとジニーが家の中の片づけなど、何かと世話をしてくれた。
 だが、ジムは親としてどういう態度をとればいいのかと悩むのである。

 「妻が生きていた頃は、私は子どもたちを叱る役目をしていた。必要とあらば、罰も加えた。それをとりなすのが妻の役割だった。ところが、妻がいなくなって、私は、父親であるべきか、母親であるべきか、両方をかねるべきか、あるいは子どもたちを頼りにして友だちとして助け合っていくべきなのか…」

 ジムは真面目な男だった。だからこそ悩みも深かったのだろう。
 事あるごとに、辛抱強く、2人の男の子に語りかけた。
 穏健 moderation と寛容 tolerantion が大切だというのが彼の哲学だった。
 2人の息子は、何度も何度もこの話を聞かされたため、「“エーション”を2つ持ってパパが来た」と笑っていたというが、やはり父親のこの態度は、なんらかの影響を子どもたちに与えていたようだ。

 ポールは、ジョンと同じように、規則に縛られた学校生活を嫌悪するようになっていたが、だからといって、すべてを投げ出し、それに抵抗するというようなことはしなかった。
 彼は、その気になれば、嫌でたまらない勉強にも手を着けることができた。何ごともテキパキとやり遂げる態度は、亡くなった母親から受け継いだものだったのかも知れない。



 父親のジムは、少年時代に独学でピアノを弾いていた。
 14〜15歳の頃、中古でもらったピアノをデタラメに弾いていたというのだが、音楽的センスがあったのだろう、そのうち耳で聴いた曲は大抵弾けるようになり、「人前で恥をかいたことは一度もなかった」という。
 彼の記憶によれば、その中古ピアノには「NEMS」というマークがついていた。(「ノース・エンド・ミュージック・ストアーズ」の略であり、あのブライアン・エプスタインの父、ハリー・エプスタインが創設した会社の名前だ)
 17歳のジム・マッカートニーは、ラグタイム・バンドの一員としてアルバイト活動をしていた。

 家庭を持ってからのジムは、もうバンドを辞めていたが、家にはピアノがあり、よく弾いていたという。

 「私がピアノを弾いても、ポールは無関心だった。ラジオの音楽を聴くことは好きだったけど。そのうち、突然、ギターが欲しいと言ったんだ。どういうきっかけかはわからないけどね」

 弟のマイケルによると、少し具体的になる。

 「母が亡くなった直後から、それが始まった。憑かれたようにギターに夢中になった。母を亡くしてギターを見いだしたのだろうか。たまたまその時期にギターというものを知ったということなのだろうか。それが一種の逃避になったんだろう。でも、なにからの逃避だったのかな」




 「すごい衝撃だった。落ち込むたびにレコードを聴いていた。レコードというものがどういう仕組みなのかわからない頃だったので、まるで魔法のようだった。『オール・シュック・アップ』はきれいだったなあ!」
(※「オール・シュック・アップ」日本のタイトルは「恋にしびれて」)

 エルビス・プレスリーに対するポールの想い出である。

 ご多分に洩れず、ポール・マッカートニーもまた、エルビスによる影響が大きかった。
 その頃の若者は、それまでにあった流行り歌を聴くには聴いたが、“熱狂的”になったとは、とてもいえなかった。さほど魅力的とも思えない歌手たちが、きれいな衣装を身にまとい、愛想のいい笑みを浮かべながら嫋々と歌う恋歌のたぐいは、若い女性向きのものだったのだ。

 若者にとって最初のショックは、ビル・ヘイリーと彼のコメッツ Bill Haley and His Cometsだった。1953年に彼らが出した「クレイジー・マン・クレイジー」は、ビルボードにランクインした最初のロックンロールということができる。
 ロック史上にその名を残すのは、1955年の「ロック・アラウンド・ザ・クロック」だ。これは7月9日にヒットチャートの1位になるや、その後8週もの間、トップの座に君臨した。
 これこそは革命であった。この曲は、それまでにあった流行り歌とは明らかに一線を画していた。
 校内暴力をテーマにした最初の映画といわれる「暴力教室」のサウンドトラックとして使われたのだが、この映画自体、教育団体、PTAにはショッキングなものであり、日本では上映禁止運動まで起きたというものだった。後に「コンバット」のサンダース軍曹役で広く知られることになるビック・モローが不良少年のボスとして出演している。
 映画の内容もさることながら、わくわくするようなビート、それまでになかった素早いコード進行とギターソロ、ビル・ヘイリーの独特のクセのあるヴォーカルは、若者たちを文字通り熱狂させた。
 上映中にこの曲が流れると、若者は踊りだした。
 イギリスでは、若者がそのまま暴徒と化して荒れ狂うという前代未聞の社会問題とまでなったのである。
 残念だったのは、ビル・ヘイリーの年齢とルックスだった。
 このヒットを飛ばしたとき、彼は32歳。十代を熱狂させるヒーローとしては、いささか年をとっていた。彼自身はまったく普通の人である。額に巻き毛を垂らしているという、どこかで知事をしていた日本の芸人を思い出させるようなヘアスタイルが特徴といえば特徴だった。
 1925年7月6日、ミシガン州ハイランドパーク出身。
 本名はウイリアム・ジョン・クリフトン・ヘイリー。
 42年にはヨーデル歌手として地方を回っている。ユーレイティ〜♪というあれである。 カントリー・バンドと一緒に仕事をするうち、ソロ・レコードを出した。48年にはウエスタン・バンドを結成する一方、ペンシルベニア州のラジオ局でDJもやっている。
 その後、カントリー&ウエスタン、ヒルビリー、リズム&ブルースといった音楽を融合したような格好で、ロックンロールへと結実していくのだ。
 彼自身に、特にカリスマ性があったとは思えない。何が売れるかという、商業的な感覚を研ぎ澄ましていた歌手というのが、当たっているのかもしれない。
 歴史に残る「ロック・アラウンド・ザ・クロック」だが、1954年にこの曲がリリースされたときの扱いは、「サーティーン・ウーマン」のB面である。まったく評価の対象外だった。
 翌年の5月、「暴力教室」の上映に合わせて、A面として再リリース。
 これですべてが変わるのである。
 そこそこのヒット曲だったものも、再評価され、彼らは一躍トップに立つ。

 そのあとに登場するのがプレスリーだった。
 プレスリーはヘイリーにないものをすべて備えていた。
 若さとセックスアピールは、ヘイリーにはどうにもならなかった。
 若者は、プレスリーという存在そのものに夢中になるのである。
 激しく腰をくねらせ、盛んに首を振りながら歌うそのさまは、それまでの歌手にはまったく見られないスタイルだった。
 彼はしばしばギターを抱えて歌ったが、それは演奏のためというより、歌うための小道具だった。それなのにカッコよく見せたのだから、これはもう生まれついての才能というよりほかないだろう。

 彼が初めて「エド・サリバン・ショー」に登場したときは、カメラマンは、プレスリーの下半身を映さないように指示されたという。
 腰を振って歌う彼は、エルビス・ザ・ペルビス(Elvis the Pelvis)と呼ばれたのである。
 彼の登場で、やや小太りで、ルックスもすでに中年のように見えたビル・ヘイリーはトップの位置から引きずりおろされたのだった。


 ポール・マッカートニーは、この頃の若者と同じようにエルビスから影響を受けた。
 プレスリーがそれまでの歌手になかったことといえば、服装等も若者に影響があったということではなかろうか。ビル・ヘイリーなどは、スーツに蝶ネクタイといった、いかにも芸人というスタイルだったが、エルビスは、服装から髪形に至るまで若者を変えてしまった。
 ポールもそうだった。

 「不良になるのではないかと心配した。細いズボンをはいてね。いくら言ってもだめだった。髪もその頃から長めだった。床屋に行っても、ほとんど変わらないので、『今日は休みだったのか』と言ったものだ」(ジム・マッカートニー)

 早熟だったポールは女の子に関して、誰よりも早かった。
 そして、それを学校で自慢して喋り回ったという。

 「悪い奴だったよ、僕は」

 1956年の夏……
 ポールは、アイバン・ボーンに仲間がウールトン教会で演奏しているので、一緒に行かないかと誘われる。

 「そうかい。じゃ、オレも一緒に行こうかな。女の子を引っかけるのも面白いしな」


 ポールがそのバンドを見た印象はこうである。

 「悪くはなかった。でも、演奏の仕方をまだあまり知らないようだった。ただガチャガチャ弾いているという感じだった」

 「ショーが終わって、僕は連中に会いに行った。世間話をしたり、僕の腕前をみせてやったりした。『トウェンティ・フライト・ロック』や『ビー・バップ・ア・ルーラ』なんかを弾いてみせた。それからリトル・リチャードのものまね。要するに、全部やってみせたわけさ」

 「ほろ酔い加減のあんちゃんが、酒臭い息をふきかけてきた。僕が演奏しているときにね。『なんだろ、この酔っぱらい』と僕は思った。そしたらそいつは『トウェンティ・フライト・ロック』は好きな曲だと言った。こいつはちょっと詳しいかなと思った」

 「それがジョンだった。僕は14でジョンは16。だからすごい大人に見えたよ」

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