リバプールでは、エプスタインが「次に誰と契約するか」という話で持ちきりとなっていた。
 エプスタインは、魔法のようにスターを創り出してしまう…。

 だが、エプスタイン流の方法が成功した例もあれば、失敗した例もある。
 成功以前に、エプスタインの逆鱗に触れて、袂を分かつ例もあったのである。
 そのほとんどは、エプスタインの几帳面さ、清潔さ好みに耐えられなかった連中だった。
 最初からスーツを着て洗練されたステージであったとしても、時間を守らない場合には、問題にもならなかった。
 車の渋滞や事故という原因があったにせよ、それを言い訳にすることは許されなかった。
 遅れた側が、恐縮し、申し訳ございませんでしたと詫びれば、もしかしたら、どうにかなったのかも知れないが、それほど自分を押し殺せる若者がリバプールにいるはずもなかった。ウソ偽りじゃないのだと、激しく、エプスタインに反論し、すべてはご破算となってしまう…。

 ビートルズが有名になるにつれて、エプスタインへの評価は高まるが、一方では傲慢になったとも囁かれた。
 彼は、自らの判断に自信を持つあまり、それに従わないものを冷酷に切り捨てたともいわれている。
 反論するにしても、冷静に論理的に行えば、エプスタインは聞く耳を持っていたはずだ。だが、多くの場合、その反論はエプスタインのプライドを傷つけるだけだったのだ。

 ビリー・J・クレーマーも、エプスタインのお気に召さなかったばかりに消えて行った歌手の1人である。
 彼は、エプスタインによって、服装、喋り方まで直すように指摘されるが、渋々といった調子であり、彼の声が気に入ったというジョンによって提供された「ドゥ・ユー・ウォント・ノウ・ア・シークレット」さえ気に入らなかった。
 彼は、エプスタインにこう言うのである。

 「もっといい曲を見つけるべきだとは思わないかい?」

 エプスタインはこの言葉に唖然としたというが、それはそうだろう。自分が最も評価しているジョンの作品を否定する人間がいるとは信じられないはずである。

 結局、レコーディングしたその曲はランキング1位となる。
(ビートルズの最初のアルバムにもそれは収められ、ジョージ・ハリソンが歌っているのはご存じのとおり)

 クレーマーは、その後もビートルズ作品を提供されヒット曲を出すのだが、彼はそれを自分の実力と思いこんだのか、違う感じの曲を歌いたいと主張する。
 さらに、例によってテレビで売り出そうとしたエプスタインに対し、まだ準備ができていないと抵抗するのだ。
 エプスタインは我慢をするが、両者の関係は危うい状態が続いていた。
 結果は出したものの、彼は再び、レノン=マッカートニーの曲を拒否し、さらにエプスタインのマネージメント方針にまで口出しをする。
 これでは、エプスタインならずとも機嫌を損ねると思うのだが、クレーマーはそのことがわからなかったようだ。


 「プリーズ・プリーズ・ミー」が成功したときに、次になすべきことはなにか。
 ジョージ・マーティンとエプスタインは、3カ月に1枚の割合のシングルと、半年に1枚のアルバムを作ることだと結論づけた。
 ビートルズは殺人的なスケジュールが続いており、すぐにはアルバムにまで考えは至らなかったようで、そういえば、アルバムを出さなければならない…そんな感じだったという。

 しかし、このころのビートルズには、アルバムに時間をかけているゆとりはなかった。
 ジョージ・マーティンが、当時を回想する。

 「キャバーン・クラブでの演奏やアメリカの曲に対する博識ぶりから、彼らが豊富なレパートリーを持っていることは知っていた。だから、私は言ったんだ。君たちのレパートリーを手当たり次第に録音しようってね」

 そうしてできたのが最初のアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」だった。

 なんとこのアルバムは、たった1日で録音を終えている。

 「朝の10時にスタートして、夜の11時には終わっていたよ」

 今とは録音技術もまったく違うのだけれど、ほぼ一発録りである。
 これは、ビートルズは曲はいいけど演奏が…などといわれたことを否定できるものなのではなかろうか。

 「PLEASE PLEASE ME プリーズ・プリーズ・ミー」1963年3月22日発売(英)

 「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」
 「ミズリー」
 「アンナ」
 「チェインズ」
 「ボーイズ」
 「アスク・ミー・ホワイ」
 「プリーズ・プリーズ・ミー」
 「ラヴ・ミー・ドゥ」
 「P.S.アイ・ラヴ・ユー」
 「ベイビー・イッツ・ユー」
 「ドゥ・ユー・ウォント・トゥ・ノウ・ア・シークレット」
 「蜜の味」
 「ゼアズ・ア・プレイス」
 「ツイスト・アンド・シャウト」

 このうち「ミズリー」は、ヘレン・シャピロに提供した曲だが、彼女は歌詞が暗過ぎるという理由で断ったという。
 ビートルズは、デビュー当初、ヘレン・シャピロをメインにしたツアーに同行していたわけで、彼女にとって、ビートルズは格下だった。あとで、彼らの成功を知ったとき、この曲を受けなかったことを後悔したのではなかろうか。

 最後の「ツイスト・アンド・シャウト」も一発録音。というより、テイク2に行こうにも、もうジョンの声はかれてしまって出なかったという。
 そりゃそうだろう。これ以上の演奏は無理だ。
 ちなみに、ライブでもこの曲は頻繁に演奏されており、あるコンサートで、この曲を紹介したジョンのジョークも有名である。

 「次の曲は、みなさん参加してください。安い席に座っている人たちは、手拍子を、高い席の方々は、宝石をジャラジャラ鳴らしてください」
 その高い客席には、エリザベス女王とマーガレット王女がいたのである。
 あとで、女王は、ジョンの言葉に気づきましたかと問われ、ニッコリ微笑んで気づいたと答えておられる…。





 主に、エプスタイン側から記してきたこの文章だが、私の予想とは違って、十分知られていると思っていたビートルズそのものについても、今では漠然としたイメージだけになっているということがわかってきた。
 ビートルズ世代で、リアルタイムで熱狂した人たちであれば常識的な事柄も、グループが解散し、そのメンバーの2名までが亡くなってしまった今となっては、その輪郭がぼやけてしまうのも仕方がないのかもしれない。
 ビートルズによって音楽の世界に革命は起きたが、その影響を受けたミュージシャンがスターとなり、新たな音楽シーンを現出する時代となると、ビートルは直接にではなく、間接的な体験として伝えられていくことになる。
 そして、溢れるほどの情報量によって、初めから存在する音楽は、ビートルズに無知であっても、十分満足を得られる状況になっているのも事実だろう。
 ビートルズは、今や古典として、ときおり、ページを開いてみる存在になりつつあるのかも知れない。


 いつの世にも、時代は若者が切り拓いていく。
 若者に耳目が集まるのは当然のことであろう。

 ならばと考える。
 若き日のビートルズをいま一度、紹介してみてはどうであろうかと。
 功成り名遂げ、今や伝説と化しているビートルズも、かつては普通の若者たちだった。
 ジョン、ポール、ジョージ、そしてリンゴの具体的イメージが得られれば、彼らをもっと身近に感じる事ができるのではあるまいか。



 1940年10月9日午後6時半、オクスフォード通りの産院で、1人の男の子が誕生した。
 戦争中でもあり、愛国的な心情にかられたためか、ミドルネームはウィンストンとつけられた。時の首相チャーチルの名前をいただいたのである。
 ジョン・ウィンストン・レノン。
 やがて、ビートルズを結成し、世界中の若者のカリスマとなる男の子の名前である。

 このとき、父親の行方は誰も知らなかった。
 父親、不在の夏、母親であるジュリアは妊娠に気づく。

 フレッド・レノンとジュリア・スタンリーは1938年12月3日に結婚している。
 マウント・プレザン登記所でそれは行われた。
 ジュリアの両親は現れなかった。
 フレッドについて、ジュリアンの両親がどのように見ていたのかは、ジュリアの姉妹の1人であるミミの言葉がすべてを物語っている。

 「フレッドはハンサムだったけど、ジュリアのためにも、誰のためにもならない男だと、私たちは思っていました」

 フレッド・レノンは16歳から船に乗り、そこで使い走りのボーイから始めて、給仕係として働くようになる。
 孤児院(9歳の時に父が亡くなっていたため)を出た1週間後に、運命の出会いがあった。
 彼は、船の仕事を始める直前、友人と共にナンパ目的で公園に出かける。
 買ったばかりのスーツに山高帽というスタイルだった。
 それが女の子の気を惹くと考えたのだというから、なんだかミョーな若者である。
 1人の女の子に目をつけた彼は、ブラブラとその前を通り過ぎる。
 すると、その女の子は言ったのだという。

 「あんた、バカみたいにみえるわよ」

 嗚呼…なんという出会いであろうか。
 ロマンティックでもなんでもない、マンガのようなシーンだが、いきなり目の前に現れた男の子に、こんな言葉をかけた女の子もなかなかになかなかではないか。
 そう、このかなりいっちゃってる女の子こそ、ジュリアン・スタンリー、やがて、ジョンの母親となる娘なのである。

 これをきっかけに2人はデートを始める。
 船の仕事であるから、2人は当然、離ればなれになる。
 フレッドの乗る船が帰港するたびに、デートを重ねるというわけで、それが2人の仲を新鮮なものにしていたのかもしれない。
 もしも、フレッドが“陸の男”であればどうだっただろうか。
 なかなか興味ある「もしも」の1つではある。

 誕生した男の子に、ミミは夢中になる。ジュリアのことなどそっちのけで、ジョンの世話をしたという。

 誕生の日に不在だったフレッドからは、ほそぼそとではあるが送金があった。
 だが、ジョンが1歳半の頃、突然、送金が途絶える。
 ミミが得た情報は、フレッドは「船から脱走した」というものだった。
 ジュリアのフレッドに対する想いが急速に冷えたとして当然だったろう。
 やがて、フレッドは現れるのだが、すでにジュリアは別の男性と知り合い、結婚を考えるようになっていた。
 フレッドによると、それなりの事情があったということなのだが、どうも旗色は悪い。

 戦争が始まった頃、ニューヨークにいた彼は、リバティ船(戦争に係わる仕事をする船)に階級を下げられて転属されそうになり、(そういうことがあるのかどうかはわからないが)それを逃れるために、乗船せず、収容所に入れられる。だが、結局、リバティ船で北アフリカまで行くことになり、そこで、積荷を盗んだという無実の罪で監獄に入っていたのだというのだ。
 真犯人は下船しており、申し開きのしようがなかった…。
 どうもフレッドの言葉は、そのまま信用しかねるところがあるのだが、彼の言葉ではこのようなことになる。

 それでもジュリアは、ジョンに対して悪い印象を与えまいとしている。

 「2人でいつもふざけあったり、笑ったりしていたと母は言っていた。フレッドはきっと人気者だったんだろう」(ジョン)

 少なくとも、ふざけ合っていたというのは確かだった。
 ミミの話によれば、ジュリアもまた、一風変わった女の子だった。

 「明るくて、シャレが上手で、ほんとに面白い子でした。ただ、もう面白おかしければ、それで十分という感じで、相手の本心がわかった時には、いつも手遅れなんです。『罪を犯されこそすれ、犯した覚えのない子』なんですよ」

 いるべきときにいなかった父親は、やがて再び海へ。
 ジュリアは同棲を始め、ジョンはミミが引き取る。

 ジョンが5歳になったとき、フレッドはミミの家に電話をする。

 「ミミにジョンを連れて行っていいかと訊いた。いけないとは言えないわというのが返事だった」

 フレッドは仲間とともにブラックプールというまちで暮らしていた。
 戦争に紛れていろいろな商売をしていた彼には金があったという。
 友人と共にニュージーランドへ移住する決心をして、すべて準備が整った時、ジュリアがやってきた。
 ジョンをかえしてれというのである。

 「私はジョンを呼んだ。父さんと暮らすか、それとも母さんの家へ行くか、どっちにするかを決めなさい。ジョンは、父さんと暮らすと言った。ジュリアがジョンに訊いたが、やっぱり父さんと暮らすと言った。 ジュリアは、家を出て行った。すると、ジョンが母親を追いかけて行った。それが最後さ。次にジョンの噂を聞いたとき、彼はビートルズになっていたんだ」

 

 

 

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