1963年1月13日。
 ビートルズとエプスタインは、人気テレビ番組「サンク・ユア・ラッキー・スターズ」の収録のため、旅立った。
 そこでエプスタインは、新たな知己を得る。

 楽屋入りした彼に、同じ番組に出演する歌手、マーク・ウィンターの宣伝担当だという男…アンドルー・ルーグ・オールダムが、自己紹介してきた。
 まだ若者といっていい、その痩せぎすで眼鏡をかけた男は、なかなかユニークな個性の持ち主で、話すうちにエプスタインを惹きつける。
 オールダムは、ビートルズの個性的なキャラクターに注目し、彼らを売り出すのならば、是非、現行制度に抵抗する反体制的な若者とすべきだと主張した。もともとオールダム自身が、反体制的な思想の持ち主だったのであるが。


 このあとオールダムは、あのローリング・スートンズに付き、ビートルズのライバル・グループとして彼らを売り出していくことになる。
 エプスタインは、オールダムにビートルズの広報担当を依頼しようかと考えていたほどで、彼の宣伝能力を評価していた。
 オールダムが、ローリング・ストーンズをビートルズのように“和ませるもの”ではなく、親たちの世代が嫌悪する“荒々しい怒れる若者”として売り出す戦略に出たとき、エプスタインはこれに積極的にのっている。
 2つのグループは、全国を二分するライバルとして成功するのだが、その裏で、エプスタインとオールダムは、レコード発売日がぶつかり合うことのないように打合せまでしている。
 当時、それぞれのファンたちが、自分たちのアイドルこそ最高だと、言い合っているというような話題がニュースとなって日本にも伝わってきたが、実は、それぞれのグループの陣営は、友好的であり、作戦は見事に成功していたわけだった。


 ビートルズはヘレン・シャピロとともにコンサート・ツアーを開始することになった。(ヘレン・シャピロは、「悲しき片想い」、「子供じゃないの」などのヒット曲で日本でも知られた女性歌手。弘田三枝子などが彼女のヒット曲を日本語で歌っている)
 ちょうどその直前、朗報が飛び込む。
 「プリーズ・プリーズ・ミー」が、ヒットチャート第1位になったのである。

 あとは、もう怒濤の進撃だった。


 ビートルズは栄光に酔いしれている暇もなかった。
 彼らには、殺人的スケジュールが待っていたのである。
 それは、もちろん、エプスタインが立てたスケジュールだ。
 彼は、ただ一度の成功で、ビートルズを満足させるわけにはいかなかった。
 金銭的なことでいえば、この当時、ビートルズは“安売り”の状況だったかもしれない。それよりもエプスタインの考えは、マスメディアをビートルズの情報で独占しようとすることにあったようなのだ。
 “リバプールのビートルズ”から、全国的な規模の人気を誇る“イギリスのビートルズ”にするために、全国的にビートルズを認知させる必要があった。とにかく、ビートルズの情報量を増やすという考えだったのかも知れない。

 彼らの注目度が、日増しに増えていくのは、誰の目にも明らかだった。
 メインのスター歌手に対する声援よりも、前座のビートルズのほうが明らかに多いという状況になっていくのである。
 契約時には、明らかに、ビートルズは、リバプールからやってきた無名グループだったが、「プリーズ・プリーズ・ミー」の大ヒットは、彼らを特別なものに変えてしまったようだった。

 1963年、5月18日から19都市を回る全国ツアーが始まる時に、その事はハッキリと証明されることになる。
 契約時、看板スターの添え物的な扱いだったビートルズは、今や全国的な注目を浴びていた。このときには、もう、彼らの人気上昇ぶりは、一種異様なものになっており、誰が見ても、ビートルズが、格下に扱われるのは不自然に思えた。
 このコンサートツアーのポスターは、急遽、差し替えられている。
 すでに大スターだったロイ・オービソンも、このことに同意したという。
 チケットは発売と同時にソルド・アウト。
 もっとも、このときのチケットも驚くほど安かった。

 リバプールで、彼らの全国的な人気が認められるには、いささか複雑なものがあった。 地元の人気者が全国区になるということは、何か自分の手から遠のくような思いを抱いたとして不思議はなかった。
 「プリーズ・プリーズ・ミー」が全国チャートで1位になったという知らせが、キャバーン・クラブ等にいる若者たちに告げられたときも、歓声が湧くこともなく、むしろ静まり返ったと伝えられている。
 自分たちの手の届くところにいたビートルズが…という思いからの静けさが、熱狂的なものにかわり、リバプールの誇りとなるには、やはりいささかの時間を必要としたのである。

 突然、別世界から現われて、ピート・ベストを解雇し、“ビートルズを奪った”エプスタインに対する評価が変わるのも、この「プリーズ・プリーズ・ミー」の成功から、しばらくしてからのことであった。

 エプスタインは、ジェリー&ペースメイカーズというグループのマネージャーも行うことになる。彼らは、それほど目立った存在ではなかったはずだが、エプスタインは、彼らの雰囲気が気に入った。
 リーダーのジェリー・マースデンは、元鉄道技師見習いという19歳の若者だった。
 彼らのどこに魅力を感じたのかはわからないが、エプスタインは、彼らにもビートルズ同様、スーツを着せるなどのドレスアップを行う。
 ジェリーは、エプスタインと話していて、普通なら反論するだろうことにも素直に聴いている自分に気がつく。エプスタインは真剣だった。そして、いい曲を見分けるセンスが抜群であることもわかる。
 もともと、リバプールにいるロック・グループは、大人のいうことなど聞かないツッパリ野郎ばかりなのだが、エプスタインにかかると、素直にいうことをきいたのだった。

 「彼を絞め殺そうと思ってオフィスに怒鳴り込んでも、納得のいくまで話し合い、最後には謝りながら出てきたものさ」(ジェリー・マースデン)


 エプスタインは、彼らのコンサートをジョージ・マーティンに聞かせる。
 ジョージ・マーティンは、すぐにレコーディングを考える。

 ジェリー&ペースメイカーズは、「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット」「アイ・ライク・イット」「ユール・ネバー・ウォーク・アローン」と立て続けにヒットチャートの1位になるという記録を残すことになる。

 今や、エプスタインのマネージャーとしての能力が非凡なものであるのは、誰の目にも明らかだった。
 リバプールでは、次に彼が契約するのは誰かというのが話題となっていく…。

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